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「止まれ!」
フロアを駆け、短く叫ぶと、夫はカートと老女の間に滑り込んだ。全身を使い、カートを受け止める。間一髪のところで、老女はカートとの接触を免れた。
「大丈夫ですか?」
夫が振り返り、老女に尋ねた。
老女は強張った顔で頷いてみせる。「ええ……」
直後、頬を緩め、
「でも怖かったわあ。お兄さん、ありがとうね」
と安堵の息をついた。
老女の娘だという女性が駆け寄って来て、夫に礼を述べた。
騒ぎを起こした兄弟とその両親は、老女に何度も頭を下げた。
フロアにいた人々からヒーロー扱いを受けた夫は、顔中に誇らしさを浮かべながら、由加里の元へと戻って来た。
「おばあさん、なんともなくて良かったなあ。俺あんまり素早いほうじゃないけど、さっきは気付いたら体が勝手に動いてたよ」
聞いてもいないのにそう報告してきた夫の顔を、由加里はまじまじと見つめる。
犬みたいだなと思う。
飼い主から認められたい褒められたいという欲求を胸に抱き、毛むくじゃらの体をそわそわと動かす。
そうか、わたしは犬と暮らしていたのか。
「いいから、早くロールケーキ買おうよ」
由加里は言った。
駐車場に戻る途中で、突然夫が戦慄き声を上げた。「嘘だろ……ここまで来てるのかよ……」
広場の脇の植え込みを指差し、由加里の視線を誘導する。
「あれだよ、あれ。俺が言ってた野良犬。うちの近くをうろついてたやつ!」
後ずさりながら、夫は告げた。
「犬?」由加里は首を傾げ、植え込みを凝視した。
「すごいな、県を跨いでまで……犬ってこんなに行動範囲広いものなのか」
夫の狼狽ぶりは、由加里の目にひどく滑稽に映った。先ほど颯爽と老女を助けた者と同一人物には、とても思えない。放っておけばこのまま野良犬に対して畏怖の念さえ抱きかねないだろう夫に、由加里は教える。「あれ、犬じゃないよ。狸だよ」
「は? 狸? あれが?」夫はすぐには信じなかった。「どう見たって犬だろ」
由加里はその場で狸の画像を検索し、スマートフォンの画面を夫の前に突き付けた。
「ほらね、狸でしょ? ていうか遼輔、今まで生きてきて一度も狸を見たことなかったの?」
「うわあ……本当に狸なんだ」
夫は目を見開き、間抜けな声を上げた。
「驚いた。実物の狸なんて見る機会なかったからなあ」
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