16人が本棚に入れています
本棚に追加
大鏡
「春の家」ときいて、アオジが一番に思い出すのは甘い香りだった。
たんぽぽ、芍薬、ネモフィラに藤。
そしてなにより、鮮明に色づくうす紅色の桜山。
ありとあらゆる花が咲き乱れ、野原は萌ゆる緑色をしている。
風は暖かくやわらかい。人々は笑顔で優しく、みんな揺らぐうす衣をまとっている。人とそうでない者の区別がつく前から、十三歳の少年、アオジは春の家の領地で大切に育てられてきた。
「アオジ。あれが見える?」
姉がわりの輝夜が、ある日そう言った。
晴天のうつくしい昼日中のことだった。外へ張り出した屋敷の展望台で、輝夜は優雅に茶をたしなんでいた。板ばりの床に緋毛氈をしき、その上に長い黒髪と豪奢な衣を広げている。輝夜は十五歳、アオジよりふたつ年上の優雅な少女だ。彼女が微笑むと空気がやわらぐ。ほっこりとした雰囲気になる。周囲にいるおつきの者たちも、自然とつられるように笑顔になってしまう。輝夜はそこにいるだけで安らげる場をつくる人だった。実弟のように扱われていたアオジは、恐縮しながら示されたほうを見た。眼下には緑広がる大地と、春の家が治める街並みが広がっている。
「どちらですか?」
いつも通りの風景だった。変わったことといえば、祭りの前なので街がいつもより賑わっている。香ばしい蒸し焼きの匂いがかすかに漂ってきて、アオジは鼻をひくつかせた。
「街じゃなくて野のほう。ようくごらん」
くすりと笑む輝夜は、左に広がる田畑を見つめていた。ちょうど植え替えの時期で、広大な畑の半分は土がむき出しになり、緑が育つのをいまかと待っている。茶色い畑の真ん中に不自然な人影が三つあった。田畑を耕す町人の姿ではない。身なりは春の家につめる使用人たちと同じで、高級なうす衣を着ていた。紅色に黄色、緑色といずれも豪奢でやわらかな長衣が、土に汚れるのも構わずに風にあおられている。
「あれは──春の人?」
「人ではない。葉名よ」
「ハナ?」
はじめて聞く言葉だった。人の名前かと思ったくらいだ。輝夜はそれ以上を言わず、じっと彼らを見つめている。周りの使用人たちを窺えば、彼らは一様にニコニコと微笑むばかりだ。どうやらなにかが始まるらしい。土の上に立つ葉名たちは一斉に腕をひろげた。吹く風を受け入れるように衣をたなびかせ、歌いはじめる。
──阿ァ──、阿亞ァ―、恵ゑ得ゥㇻ──、恵ゑゥㇻ―、ァ――……
同じ旋律を繰り返し、三人で重ねて風にのせている。鼓膜の奥で和音をなし、きんと響いて声が一体となる。瞬間、アオジはあまりの甲高さに耳をおさえたが、輝夜はおかしそうに笑っていた。田畑へ視線を戻したアオジは絶句した。土に緑が生え始めていた。遠目にもわかるほど大量に、土の茶を埋めつくす無数の新芽が、徐々に空へ伸びていく。あっという間に人の膝丈まで育ったそれらは、どうやら領地でよくとれる作物のようだった。丸くて大きな葉っぱは芋類、細い茎と針のような葉の群れは米か麦だろう。種類の違う作物が区画ごとに、あっという間に育っている。歌っていた三人が声を止めると、空間は日常に戻された。
「あれが葉名よ。私たちの恵みの種」
そのとき、アオジは人ならざる者の存在を知った。それはすでに生活のなかに溶けこみ、春の家のなかにも、輝夜の周囲の付き人のなかにも混じっていた。人の姿をした彼らは麗しく着飾り、人と同じように暮らしていたが、人よりも優れた力をもっていた。神と人との中間点──彼らは、神聖な葉名と呼ばれる存在だった。
最初のコメントを投稿しよう!