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アオジは元々、春の家の人間ではなかった。北の川から流されてきた捨て子で、それを拾ってきた春の当主、月水の慈悲で、使用人として育てられてきた。この身に春の血こそ流れないが、温和で豊かな土地柄と当主・月水の優しさにより、アオジは高貴な身分である輝夜のもとへつけられ、一族の者のように丁重に扱われてきた。
だから「種を使ってみては?」と輝夜に言われたとき、アオジはぎょっとした。自分は春の人間ではない。貴重な種をもらうことも、種に触れることすら本来は許されない立場にある。そうはわかっていても、心のうちに喜びと期待があった。種を使う──つまりそれを使って、自分だけの葉名を作らないかと輝夜は聞いたのだ。ついゆるみ頷きそうになる顔を、慌ててアオジは伏せなければならなかった。輝夜はそんな内心をよくわかっていて、笑っていた。姉がわりの彼女に隠せることはひとつもない。こうして、アオジは初めて葉名を作る機会を得た。
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葉名作りは神聖な儀式で、作るには様々な人物の許可がいるはずだったが、輝夜から話のあった夜にはもう、アオジのための儀式の手はずが整えられていた。
月の綺麗な夜だった。輝夜は窓際に立ち、休む前の楽な姿でアオジを見おろしていた。輝夜の葉名がその横で、天女のごとき微笑みでたたずんでいる。その葉名は名を「むらさき」といい、藤色の長髪をゆるく結い、光に透ける紫の衣をまとっている。人間でいえば二十歳くらいの美しい外見だが、本質は藤の種に輝夜が贄をささげ作った、人ならざるものだ。輝夜はむらさきに白い陶器の小皿を持ってこさせた。皿には五つ、形も色もばらばらな種が転がっている。
「アオジ。これはお父様の言いつけでもあるのよ。あなたを春の人間として受け入れるため、心から家族として暮らすにはどうしても、必要なことだと」
「月水さまが……?」
輝夜は複雑そうな目をしていた。
「あなたが私たちに引け目を感じているのはわかってる。お父様を父と呼べないのも、仕方ないのかもしれない。けれどいつまでもそんな風によそよそしくいないでほしいの。私とともに過ごした時間は、実の兄弟たちよりも長いのだから」
とっさに言葉が出なかった。昔から輝夜を頼り、実の姉のように慕ってきた。けれど心の奥底では、身分の差や仕えるべき主であると言い聞かせてきたのも事実だ。月水のことを父とは呼べない。そうするには畏敬が深すぎる。けれど輝夜のことは──。
「わかりました。私も葉名を作り、輝夜様のお役に立ちとうございます」
輝夜はなんともいえない笑みを浮かべた。仕方ないと呆れたような、どこか傷ついたような顔だった。アオジは罪悪感をおぼえたが、それ以上の親愛を口にできなかった。輝夜は実の兄弟ではない。それを忘れてはならない。葉名を作ればそれを使って彼女のためにできることも増える。一刻も早く一人前になり、輝夜の役に立ちたかった。
輝夜はむらさきを呼び、白い小皿に載る種を吟味した。
「どれがいいかしら。あなたの最初の葉名になるのだから、美しい──」
そこまで言いかけ、皿をのぞきこむ表情が曇る。小皿へのばしかけた指を止め、ふと輝夜は唇をかんだ。苦悩するような瞳が月影に揺らぐ。
「あれを持っておいで」
輝夜は白皿の種とは別に、むらさきに白い小袋をもってこさせた。言われた通りにアオジが手を差し出すと、袋からコロリと細長い種がひとつ出てくる。
「この種はもうお前のもの。さあ、葉名を作ってごらん」
アオジは手にぽつりと乗せられた針のような種を見つめた。それはあまりに小さくて、けれどたしかに本物の種だった。輝夜に言われるままに、清らかな水さかずきとともに、細く喉にささりそうな種を胃へ流しこむ。必要な祝詞を輝夜がとなえ、それを追うアオジの声は緊張に震えた。ひどくあっさりと準備が整い、輝夜は嫣然と笑った。
「代償を」
「代償?」
月の光に照らされた彼女は、神聖な微笑みで目を光らせている。普段とはまるで異なる雰囲気にのまれ、アオジは茫然としてしまう。
「贄よ。べつにたいしたことじゃない」
葉名を作るには、自らの一部を保険として捧げるのだと彼女は教えてくれた。人たる禰宜が種をのみ、肉体の一部を供物にする祝詞を唱えて、葉名を産み出すのだと。
「わたしはもう二十体以上も葉名を作った。そこにいるむらさきも、あなたがいつも顔を合わせる者、そうでない者たちも多くいる。けれど、どう? それだけ代償を捧げたわたしは五体満足でここにいる。なにかおかしなところがある?」
笑う輝夜の表情は美しい。その微笑みの中に、ひとかけの悲愴さが見えたのは気のせいだろうか。
「怖がることはない。葉名が生きている限り、差し出した代償は失われないから」
それを聞いてほっとした。葉名は人より長生きで丈夫だ。怪我をしてもすぐに治るし、病にかかることもない。数百年の時を平気で生きる頑健さをもってもいる。
「何を差し出せばいいのでしょう?」
「そうね。はじめてだから左手がいいかも」
アオジの利き手は右だ。それなら万が一にも不自由はすくなくなる。アオジは頷き、左手に榊から水を受けた。月の光が肌をやくようだった。不思議な静けさが降りてきている。誰も何も言わなかった。
急激な変化は突然に訪れた。胃がせりあがるような感覚、熱。ごぼりと、なにかを吐いたと思ったときには、止まらぬ気持ち悪さにうずくまっていた。口からとめどなく気体が漏れ出してくる。その薄いもやを吐くと、あたりに強烈な花の香りが漂った。ごぼり、ごぼりと、ひと続きの重たいもやが胃から喉を通り、口から外へ吐かれて床上で集まり、人の形をなしていく。かはっと最後のひと息を吐いたとき、涙にかすむ視界に人の生足が見えた。輝夜と自分の間に今までいなかったもうひとりが現れたのだ。床の木板を踏むその足は驚くほど白かった。爪は愛らしいうす紅色で、足首は折れそうなほど細い。目線を上げると、陽だまり色の衣が見えた。長くつややかな茶髪が見え、しなやかで細い手の形が見えたとき、アオジは少女の葉名を産み出したのだと思った。
「これは……美しい青年の形ね」
輝夜の声に驚いて顔を上げる。困惑した顔で立ちすくんでいたのは、少女と見まがうほどに可憐な葉名だった。
「青年?」
立ち上がったアオジはまじまじと、自分より背の高い葉名を見上げる。八の字に下がった眉にふさとした睫。うす茶色の両目が弱りきったようにおろおろしている。頬はほんのり薔薇色で、ほとんどの葉名がそうであるように美しい造作だが、気はかなり弱そうだ。白い首に喉ぼとけを認めて、アオジは困惑する。葉名とは女性であるものだ。春の家で見る彼らは全員、ふくよかで清い乙女の姿をしている。男性の葉名というものを見たことがない。いるのかもしれないが、すくなくとも春の地にはいなかった。
「名をつけておあげ」
けれど輝夜は満足げだった。無事にアオジが葉名を産み出せたこと、それが美しい姿だったことに安堵しているようだ。名をつけるように急かされ、アオジは目の前の青年を見上げた。自分より年上の、十六、七歳くらいの彼は、背は高いのにびくびくと震えている。左右に揺れる目がアオジの目をとらえ、ようやく止まった。じっと見つめてくる澄みきった瞳は清らかで、とても純真なものに思えた。
「陽菜です」
「ハルナ?」
「ええ、……はい。それがいい」
名は自然と頭に浮かんできた。葉名の名づけとはそういうものだと、アオジは後から知った。名は与えるものではなく浮かぶもの、宙に漂うそれをつかみ取ることが、葉名と心を通わせる第一歩なのだと。人ならざる陽菜は、名を呼ばれると人間のように笑った。優しくふんわりとしたその笑みは、どこか輝夜に似て心やすらぐものだった。
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