大鏡

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「アオジ」  陽が傾きかけた頃、輝夜とむらさきがやって来た。輝夜は赤く泣きはらした目を隠そうともせず、疲れた顔で野にたたずんでいる。うつらとしていたアオジは、ただならぬ様子に飛び上がった。陽菜はいつの間にか隣で丸くなり、すうすう寝ている。 「い、いかがされました?」 「大変なのよ……お兄様が、……こんなことだと分かっていれば、わたしだって──ッ!」  泣き崩れた輝夜に駆け寄ると、ようやく陽菜も何事かと目をこすり起きてくる。むらさき輝夜の肩を支えようとしたが、輝夜は悲鳴をあげた。 「っ、触らないで!?」  身をすくませたむらさきは、すまなそうに謝り一歩下がった。アオジはどうするべきか決めかねて、そっと輝夜の前に膝をついた。 「どうされたのです。何かできることはありますか?」  輝夜はしゃくりあげ、地面をかきむしり泣いていた。いつもの悠然としたやわらかな雰囲気は消えている。地につきたった彼女の指が、豊かに咲く小さな花や草をぶちぶちとむしり取る。それでも足らないと、爪で土を掘り返している。近寄ってきた陽菜が怯えてアオジの肩をそっとつかんだ。泣きじゃくる輝夜は、それでもしばらくすると気丈に息を吐き、無理に笑ってみせた。声は震え、時々裏返りそうになっている。 「ごめんなさい、取り乱したわ。むらさき、あなたにも──悪いことをした。ねぇ、むらさき」  そう顔を上げた輝夜の瞳はうつろだった。 「むらさき、むらさき?」  宙をさまよった指を、むらさきが困ったようにそっとつかむ。 「ここに」 「どこにも行ってはだめよ。ずっと私のそばにいて」 「承知しております」 「ずっと。ずっとよ。離れてはだめ」 「はい」  輝夜を落ちつかせるためだけにむらさきは頷いたようだった。どうしたものかと弱り果てたアオジは、離れた場所で様子を窺っている当主・月水の姿をみとめた。正式な黒の水干姿で、目が合うと月水は馬を降り、歩いてくる。──驚いた。道沿いに月水の葉名たちが、ずらりと正服で顔をそろえている。普段はまったく顔を見ることのない葉名たちもいる。その数は二十体以上だ。美しいうす布に身をつつみ、全員が深刻そうにたたずんでいる。 「輝夜」月水に名を呼ばれ、輝夜は身を震わせた。優しく呼ばれただけなのに、恫喝されたみたいな反応だった。むらさきに縋りつく輝夜を見て、月水は諦めたように息をつく。 「アオジ」 「は、はい」  まっすぐ目を見て話す月水は、齢五十を超えてなお若々しい。灰色まじりの長髪を後ろにまとめ、思慮深いまなざしで柔らかに言葉を発する。 「星輝(せいき)が死んだ。これから一族で集会を執り行う。お前もこい」  どうして、とは声にならなかった。星輝は当主・月水の第二子だ。歳はまだ二十歳そこそこで、アオジにもよくしてくれていた。つい先日、彼に会ったばかりだ。月水と一緒に星輝は用事で他領へ出かけた。出発の際に「土産はなにがいい?」と朗らかに問われ、うれしくも遠慮したのはたった五日前のことだ。三月(みつき)は戻らないはずの月水が、すでに戻ってきているのはそのせいなのだろう。 「なぜ」と口にしながら、アオジは事故だと予想した。道中で不慮の事故にあい、星輝は死んだのだ──だから月水は急いで帰ってきた。けれど答えは予想に反していた。 「星輝は殺されたのだ。葉名たちとともに」  輝夜の身が痙攣したように震える。むらさきがその横で背をさすっている。アオジは茫然とつぶやいていた。 「誰に……」 「夏の者たちだ。困ったことになった。急ぎ対応を話し合わねばならん。輝夜」  名を呼ばれても輝夜はうつむいたままだった。 「しっかりしなさい。お前にも春の者としての責任がある。……すでにあとには引けぬ」  輝夜は答えない。深いため息をこぼした月水の目が、ふとアオジの後ろに立つ陽菜へ止まる。おびえたように陽菜はアオジの肩をぎゅっとつかんだ。 「いずれにせよ、今宵は主上がおでましになる。星輝が出すはずだった葉名は消えてしまったし、その穴を誰かで埋める必要があるな」  あまりにも淡々とした物言いで、アオジはつい月水の顔を見返してしまった。息子が殺されたと言ったその口で、悲しみもせずに夜の祭儀について話しているのか。いや、とアオジはすぐに否定する。月水の冷淡にもみえる態度は、そう装っているだけだった。常より深く刻まれた眉間のしわや、かすかに赤い目もと、瞳にちらつく苦悶の色を見れば、悲しみを殺しているだけだとわかる。当主としてやることが多すぎて、悲しむ暇もないのだろう。夏の者に当主の子が殺された。経緯はどうあれ、それは争いの火種となりかねない重大事だ。  春夏秋冬、各領地をおさめる家同士の関係は、良好とはいえないまでも表立って敵対してはいない。その均衡が崩された今、数百年前のように、また血で血を洗う争いになりかねなかった。加えて今宵は主上がお出ましになる。月水には悲嘆にくれている暇も、休むひとときも与えられない。アオジはしっかりと頷いた。 「できることがあれば、何でもお申しつけください」  月水はようやく目元をやわらげた。 「また後で」  来た道を戻り、大勢の葉名たちを引き連れて屋敷へ歩いていく。その一行を輝夜は茫然と見送っていた。信じられないと沈んだその顔が、アオジの心をざわめかせた。 「さあ、輝夜様」  参りましょうと、むらさきが輝夜を立たせた。輝夜は両手と衣を土に汚したままで、よろつき屋敷へ戻って行く。一度も振り返らなかった。アオジは陽菜の手をとり、不安に揺れる目に頷いてやる。 「大丈夫。心配いらない」  きっとなにも変わらない。まだ陽菜が主上の塔へ呼ばれると決まったわけではない。もしそうなったとしても、今までとなにも変わらないはずだ。なかば祈りをこめた言葉に、陽菜もしっかりと頷く。震えるまつげの奥にはむしろ、力づけるような強い光があった。 「帰ろう」  自分たちも行かなければならない。その日の春の夕陽は、思い返してみれば見たこともないほどくっきりと赤く、不気味なほどに綺麗だった。
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