大鏡

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 陽菜はそれ以降、塔へ呼ばれなくなった。月水の息子、娘たちが新たに葉名を増やし、そちらを向かわせるようになったからだ。  星輝の葬儀は盛大にとり行われた。領地が墨染の一色に染まり、すれ違う人や葉名までもが表情を翳らせ、重たい野辺送りは荘厳におこなわれた。星輝の遺体は夏の地からあっさり返されてきた。死に顔すら拝めないと思っていた春の者たちにとっては、意外なことだった。直系血族以外で遺体を見ることを許されたのは、アオジを含むほんの一部だ。遺体は傷ひとつなく綺麗なもので、亡くなった星輝が体のどの部分を贄としていたのか、アオジにはわからなかった。あまりにも綺麗なその死に顔にアオジはほっとしかけ、一瞬でぞっとした。葉名を作るには自らの一部を代償として捧げなければならない。産み出した葉名が消えれば、贄とした肉体の部位は失われる。星輝の死因は葉名を殺されたことだ。見た目では失われた部分のない彼が、八十四体も葉名を産み出すのに差し出した代償はなんだったのか。彼は自分の内臓や血肉、骨など、肉体の内側を差し出したのではないだろうか。でなければこれほど綺麗な姿で、血も流さずに死ねるはずがない。葉名づくりはとても死に近い行為だと、アオジはそのときになってようやく実感した。代償とは、贄とは口先だけではない。万にひとつも葉名が死んだとき、産み出した人間も道連れとなる。人より丈夫で傷つきにくい葉名が殺されたというのも、アオジには不可解なことだった。葉名は刀傷程度では死なない。実際にそんな場面に出くわしたことはないが、両手足を失っても死ななかったという噂もあるくらいだ。いったいどうやって星輝の葉名は殺されたのか。分からないものをわからないままに産み出し、使い続けている。そのことがひどく恐ろしく、眼前に見えない暗雲を落としているようだった。    星輝が死んでしばらく沈んでいた空気は、風に薄まるように元通りになった。時間をかけて人はその死を消化し、少しずつ記憶にして置き残していく。  夏との一件は、四家が一同に集う魂鎮祭(たましずめのまつり)で話し合うことに決まった。魂鎮祭とは、主上に一年の恵みを感謝し、舞や音楽をおさめる式典だった。会場は持ち回りで行われ、今年は春がほかの三家をもてなすことになっている。夏・秋・冬の当主たちが集まるので、春の家はその準備に現在、追われていた。葉名たちには歌を歌わせたり、楽を奏でさせたりするので、その準備も必要になる。舞のうまい葉名には踊りをしこみ、もてなしの宴席に備えなければならない。四家のなかでもとくに華やかといわれる春の魂鎮祭は、今年も盛大に行われる予定だった。  ほぼすべての葉名が集まり外で歌を練習しているのを、アオジは陽菜と丘の上から眺めていた。やわらかな昼どきの風を受け、陽菜は眠そうにしている。最近おぼえたばかりの竪琴をぼんやりとつまびくかたわら、時々首が前後に揺れている。ほとんど眠りかけているようだった。陽菜が触っているのは横に寝かせる琴ではなく、縦にして持ち運べる簡易琴だ。重さもさほどなく、春の地でも外で使われる機会の多い楽器だ。びよん、ぼろん、と音が外れるが、アオジはしだいにそれにも慣れてきて、外れた音の方が好きになっていた。陽菜はこれでも真剣に練習しているのでくさすわけにもいかない。 「アオジ」  低く後ろから呼ばれて、慌てて飛び起きた。月水がひとりで立っていた。 「どうだ、様子は?」 「ええ、まあ」  言葉を濁した先で、陽菜が調子はずれの竪琴を夢中で鳴らしはじめる。 「なるほど。その葉名は陽菜と言ったか」  月水は苦笑し、しばらくそれを眺めていた。やわらかな風が彼の銀色の髪を慰撫し、揺らしている。月水はここ数か月でかなりやつれた。頬はこけ、両手首は細くなり、目の下に消えそうにない隈をつけている。第二子である星輝が死んだことや、それからの多忙な日々に彼は相当参っているようだった。このままでは倒れてしまう──アオジ以外にも心配している者は多い。視線の意味を正しくとり、月水は肩をすくめた。 「なんだ、お前まで私を病人扱いか。家にいるとみな休めとうるさいから、こんなところまで出たというのに」 「お休みになられた方がいいですよ。倒れられては困ります」 「ふん。倒れるのは祭がすんでからだ。今はまったく、それどころではない……」  月水のため息はながく、風にあわく溶けていく。 「最近、輝夜に会ったか?」  ぽつりと出された名に、彼がこんなところまで来た本当の理由がわかった。輝夜にはここ数週間、会いにいっていない。 「いいえ……でも祭の準備で、お忙しいかと思って」 「まあそうだな。忙しいだろう。だが、お前と話すひと時くらい、あの子にもあるだろうよ」  責めるような月水の瞳に、アオジはうつむいた。祭りの準備ですれ違うことが多く、それを言い訳に輝夜をなんとなく避けてきた。あの日以来だ──陽菜がはじめて塔へ向かい、大量の種子を持ち帰り、それを輝夜に手渡してから。アオジはそっと彼女から離れるようになっていた。理由は自分でもよくわからない。陽菜が持ち帰った種子を輝夜に渡したことは、アオジにとっても幸いだった。おかげで陽菜はまたいつも通り、塔へ上がることもなく平穏に暮らせている。輝夜はあの種子の責任を肩代わりしてくれたのだ。感謝しこそすれ、負の感情はない。だからそれが原因で避けているのではないが、では何故と考えてみると、──そういえば、怖かったからかもしれなかった。輝夜の新しい葉名たち、なずなとクロリだ。彼らに接する輝夜の雰囲気を、アオジはこれ以上見たくなかった。どこがどうとはいえないが、あの場に留まることで、自分と陽菜の関係までもが変わってしまいそうで、それがなんとなく嫌だったのだ。 「喧嘩でもしたか」  月水は優しさと呆れを混ぜた視線をくれる。 「いえ、そんなことは。ただ何となく時があわなくて」 「ならいいが。たまに話してやってくれ。最近どうにも塞いでいる」  月水はごまかしに気づいたようだが、深く追求はしてこなかった。基本的に彼は放任で、必要以上のことには介入しない。逆にいえば、月水に指摘されるほど自分と輝夜の不仲が目立ったことになる。 「すみません」 「謝る必要はない。なにも、──そうだ」  これをと、月水はふと思い出したようにたもとから白い袋を取り出した。手渡されたそれが何かわからず、重さを確かめるようについ手のひらにのせてしまう。 「なんです?」 「開けてみなさい」  袋の中を覗くと、黒くて細い何かが入っていた。種子だ。風にさらわれないように取り出してみる。細い針に似た形だった。陽菜を作った時のものとよく似ている。 「これは……?」 「蒲公英(たんぽぽ)の種子だ」  月水の口調は柔らかく、吹き抜ける春風を思わせる。 「その葉名は、蒲公英の割れ種で生み出したのだと、そう輝夜から聞いた。そこにあるのは完全な欠けのない種だ。もしお前が、輝夜が割れ種を与えたことに怒っていたらと、そう思ってな。それを使いもう一度。もう一体、陽菜とそっくりな形の葉名を作ればいい」  驚いて月水の顔を見た。月水は竪琴をひく陽菜をやさしい瞳で眺めている。慈しむようなその表情が、急にまったく別の意味を持つものに思えた。 「けっこうです。私には陽菜がいますから」  月水は苦笑している。 「なにも陽菜を捨てろというわけではない。贄も払っているのだ。むしろそれを捨てるわけにはいくまい。ただもう一体、せめて声の出る葉名が必要だろうと思ったのだ。その形が気に入ったようだし、同じ種で作ってみればいい。似た形にはなるはずだ」 「……お返しします」  突き返そうとした白い小袋を、月水は受け取らなかった。ただ苦笑いで両腕を組んでいる。 「わかった、好きにしなさい。ただし、それはもうお前のものだ。作らないにしても、保管してお前が持っておきなさい」  なぜ──。  まるでアオジがいつか、この種を使う日がくると言わんばかりだ。月水の言いようは、人形が壊れているから同じものを新しく買ってやると、そう言っている風に聞こえる。陽菜は物じゃないのに。声が出せないことも、物覚えが悪いことも全部、陽菜の良さだ。月水は疲れた笑みだけを置き残し、屋敷へ戻って行った。立ちすくむアオジの横では、陽菜が外れた音で琴を鳴らし続けている。春の家の者たちのように、大量に葉名を作るようになれば、また考えも変わるだろうか。葉名は人とは違うからと、まるで道具のように割り切ることができるだろうか? 「陽菜。輝夜様に会いに行こうか」  何かがおかしかった。けれどそれが何なのかはわからない。輝夜なら正しい答えを教えてくれるだろう。いつだって輝夜は、困っているときに最後に頼れる存在なのだから。
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