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カフェ・キノネ 1.ユリノキの立つ庭(前編)
ぶあつい白木の扉をあけ、店に一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。鼻をくすぐるコーヒーの香りと同時に、俺の視界は〈それ〉で覆われた。
――ほとんどの連中はそれを匂いで理解するのだという。遠く離れても嗅ぎ分けられる強烈な匂いが脳を直撃することでそれとわかるのだと。
だが俺にはそれは匂いとは別の感覚で現れる。それは俺の視線をつかんで離さない、色彩のように感じられるものだ。その色彩は俺の頭の中にしかみえない。正確に名前もつけられないから、うまく言葉であらわすこともできない。
その色は夜の空に似ているが、内側からまぶしく輝いて、眼を眩ませる。そして周囲のなにもかもを消してしまう。
俺はこれまで何百回もこの色――のようなもの――を紙や液晶画面に再現しようと試みたが、一度も成功したことはなかった。
そしていま、その色はまた俺の視界を降るように覆っている。俺を占領し、支配しようとする。
一瞬で心の底から後悔した。完全に失敗したとわかった。
「佐枝?」
隣で不審そうな声が呼ぶ。頭がぶれそうになるのをこらえて横を向く。隣に立つのはエージェントの暁だ。頭ひとつ高い位置から俺をみおろしている。陽気な顔立ちにごつい印象を与えている太い眉が寄って俺をじろりと眺めまわし、うなるような声でたずねた。
「どうした?」
「立ちくらみしただけだ」
首をふって、俺は視界を覆う色彩から他の感覚へ注意を向けた。右手のカウンターからかすかに聞こえる音楽、グラスのふれあう音、コーヒーの香りに、わずかなバニラの甘さ。カウンターのむこうのキッチンから漂う、クッキーかスコーンが焼きあがる匂い。大きな観葉植物の存在感。
そして光だ。午後のギャラリーカフェ「キノネ」には、天井近くの窓からふんだんに日光がさしこむ。
気をそらすのに成功したらしく、視界を覆う眩しさは薄れた。入れ替わるように、自分の体からかすかに漂う香りを嗅ぎわける。森を思わせるすっきりしたトーンの香水で、一年前から使っているものだ。
「いくら近くだからって、山道をママチャリなんかで来るからだ」
手首の端末を操作しながら暁がいった。何も勘づいた様子はない。そうであって当然なのだが、俺はひそかに安堵した。
「ママチャリじゃないな。一応ロードバイクだ」
「アシストついてるんだろ」
「アシストつきイコール、ママチャリっての、偏見だぜ」
「ああ、了解」
暁は俺をなだめるように手をあげる。代理人を頼んでいる間柄とはいえ、暁とはこんな軽口が叩けるからありがたい。
「クライアントはもう来てる」暁はそういってテーブルの間を進んだ。
いわれなくても俺にはわかっていた。奥のサンルームのガラスのむこうには緑のあざやかな影があふれ、あまり手入れされていない芝生の中央にひび割れたようなふとい幹の木が立っている。俺のスニーカーが踏む白っぽい木の床には木漏れ日が遊ぶ。またあの〈色〉が脳裏にちらつくが、俺は庭から店内へ射しこむ光をみつめる。惑わされるな。
俺の偽装は完璧だ。だからけっしてあいつにはわからない。この〈色〉を感じているのは俺だけだ。
「まさか――サエ?」
呼ぶ声が聞こえた。俺をこう呼ぶのはこの声だけだ。大声ではない。高くも低くもないのに、骨に響くようで、よく通る。昔からどこにいてもそうだった。まったく変わっていなかった。後悔がさらに深く突き刺さった。
「え? 知り合い?」
暁がつぶやく声が聞こえた。
コーナーテーブルの下から磨かれた革靴が覗いていた。声の主は優雅な身のこなしで立ち上がる。カジュアルだが極上の仕立てのジャケットの襟で小さな光が反射した。
「やはりサエだ。まさに運命だな。俺の眼に狂いはなかった」
視線は半歩前にいる暁を通り越し、まっすぐ俺をみつめていた。
眸は暗いのに中央の虹彩部分にだけ、淡い琥珀色の筋がちらりと閃く。タイガーアイ。そんな言葉が頭をよぎる。俺は真顔で見返した。
「何が運命だ。アルファの冗談はきついぜ」
「変わらないな」
藤野谷は唇の端をあげて笑った。こいつの魅力はいつも笑顔から発揮される。その唇からきつい言葉が飛び出しても、無茶ぶりとしか思えない命令が出てきても、人がついていく不思議な魅力だ。
「まさか、本当に知り合いだったのか?」
暁が立ち止まって俺に驚いた顔を向けた。
「同級生だった」俺はしぶしぶ答えた。「高校の一時期と大学で」
「藤野谷天藍と?」もう一段階ふとい眉があがる。「なんだそれ――まさか、彼がクライアントだと知っていたなんて、ないよな」
暁の言葉を俺は鼻で笑いたくなった。知っていればいま確実にここにいないだろう。
「クライアントの正体は面会の時に明かすとおまえがいったんだ」
そう答えると、暁はあきらかに困惑して顔をしかめる。
「頼まれたんだよ。無名のクリエイターに藤野谷の名前を出して構えられると困るってな。それにおまえだって、表に出たくないから俺をエージェントにしているわけだし」
構えられると困るなんていかにも藤野谷が頼みそうなことだし、暁は断れなかったわけだ。もちろんそうだろう。
藤野谷家といえばアルファの名門一族で、俗に「名族」と呼ばれる階層に属する。ふつうなら暁のような一般人は報道で名前を聞くくらいがせいぜいだ。アルファだからといって超能力を持っているわけではない。だが彼らは人を従わせて動かす才能、リーダーシップに長けている。名門の氏族の人間はその才能もひとしおで、俺も暁も逆らえない。
「気にしないで座ってくれ」
俺たちの様子を観察していた藤野谷が気軽な調子で話しかけ、暁は毒気を抜かれた様子ではす向かいの椅子へ足を向けた。おかげで俺はもうひとつの椅子を選ばざるをえなかった。藤野谷の真向かいだ。
かすかな香りが漂った。名付けるのが困難な複雑な香りで、視界にまたあの色がかぶる。頭の片隅で、長年見ないふりをしている疑問がちらついたが、俺は白木の椅子に腰をおろした。
ギャラリーカフェ「キノネ」は「木の根」を意味するのか、はたまた「木の音」なのかはっきりしないが、店内にもガラス越しに見える庭にも樹木がふんだんに置かれている。もっとも店名は「キツネ」とまちがえられることも多く、カフェのマスターが電話でとんちんかんな問いあわせを頻繁に受けるのを俺はよく知っていた。以前短い間ここでバイトしたことがあるからだ。
マスターは細い切れ長のやさしげなまなざしで、キツネに似ているといえなくもない。もしかしたらわざとつけた名前かもしれない。
ガラス越しにみえる庭は入り口の狭い構えから想像されるよりずっと広い。週末はガーデンパーティやギャラリーオープニングレセプションで貸切にされることもある。もう少し寒くなると中央に立つ木が落葉し、黄色に色づいた葉が芝生を覆うだろう。サンルームの木漏れ日はこの木の影だ。マスターに以前名前をたずねたことがある。ユリノキ、だと教えられた。チューリップツリーとも呼ぶらしい。
「ここはいい店だね」と藤野谷がいう。
「彼がよく使う店なのでここを指定させていただきました」暁が俺の方へ顎を傾けながらよけいなことをいった。「遠くからありがとうございます」
「いや、こちらが特別に面会を頼んだのだから当然だ。もっともあの断片の作者がサエだともし知っていたら――」
「フッテージ?」
思わず口を挟んだ俺の声は運ばれてきた水のグラスにさえぎられた。マスターは黒いギャルソンエプロンに白いセーターといういつものいでたちで、俺に軽く目礼する。細身で柔和な顔立ちをしたオメガの彼には都心でギャラリーを経営するアルファのパートナーがいるが、このカフェに併設したスペースで展示やレセプションが行われる日以外は姿をみせない。
この店は都心から電車で一時間離れた大学町の、さらに外れの国道沿いにあるから、ふだんの客は常連がほとんどだった。週末の夜はバー営業もするが、俺は昼間のコーヒーの香りが好きだった。
「注文は?」
「コーヒー。ブラックで」
俺と藤野谷がほぼ同時に答え、暁が続いた。
「俺は紅茶で」
マスターがカウンターに引き返すと、藤野谷がなめらかな動作でタブレットを胸ポケットから取り出す。
「これだ」
長い指が液晶画面を走った。俺の腹の底でざわざわと何かが動いた。藤野谷はタブレットのなめらかな表面をなでる。なぜか、その指先に触れられたかのように俺の背中がぞくりとする。
真っ暗の画面が濃いグレーへ変化した。その中に極細の線がひらめく。
「最初にみつけてから、同じ作者の動画を探しつづけた」と藤野谷がささやいた。
画面のなかで線が動いている。写真ではなく、絵画のようでもないテクスチャーの描線だ。線の動きとともに雨粒のようにクリック音が鳴る。動画の開始後十秒間ほどは、画面の中でなにが起きているのかまったくわからない。だが突然、その混沌に秩序があらわれる。でたらめな線のかたまりが人物像だといきなりわかるのだ。一度認識すれば最後そうとしかみえない。街並みがあり、人影が歩きはじめる。すべての線に意味が生まれ、白黒の混沌が物語へ変化する。線の動きそのものが、三十秒に満たない映像の中で短いドラマのように生命をもつ。
俺が一年前にインターネットの動画共有サービスに匿名で投稿した、最初のアートアニメーションだった。
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