第2節「模造の矢」

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第2節「模造の矢」

  /1  頭の中にスイッチが出来たので、これは一体どういうことなのかと菖蒲さんに相談してみた。  少し前に起こったモトムラくん事件以降、僕は僕を見ていた「もう一人の僕」に悩まされないようになった。  あの日ZZR400に乗った時に消えてしまって以来、「もう一人の僕」は一度も僕の前に現れていない。結果、僕は長い間悩まされてきた頭の負荷から、一時的にでも解放された状態でここしばらくの生活を送っている。 「スイッチ?」  いつもの日本語教師滞在所である菖蒲さんの部屋で、どうしたものかと切り出してみた所、菖蒲さんはいつものその名の通りの紫の花を想像させる美しい髪を揺らしながら不用意に僕の顔をのぞき込んで、「ふーん」と答えた。  モトムラくん事件後、理子にも説明したという、僕が持っている過剰エンパシー障害なる病気に関する説明を菖蒲さんから受けた。  エンパシーという名の他者への共感感情、それが僕は人並み外れて大きいらしい。その結果、他人の痛みを過度に摂取した僕の深層心理は、その痛みから逃れるために自分というものを分離してダメージを逃がしていた。  あの僕を苦しめていたように思われたもう一人の僕も、ある意味では他者の痛みに僕自身が潰されてしまわないように、痛みの何割かを背負ってくれていたのだと、それが菖蒲さんから受けた説明だ。 「スイッチという表現は言い得て妙だね。つまり、優希は頭の中にそのスイッチとやらができて、過剰エンパシーを解放した状態と、閉じた状態とのオン/オフが切り替えられるようになったということ?」  ポンと菖蒲さんがソファの横を叩いたので、座れという合図だと解釈して、いつものように並んで腰を下ろす。菖蒲さんからは、今日も不思議な、何かの花の香りがする。 「これは興味深い事例だね。いや、過剰エンパシー障害自体が私が研究の先駆者みたいな病気だけれど。  頭の中にできたと言ったけど、それは何らかの心象イメージを伴うものなのかな?」 「心象イメージというと?」  菖蒲さんが口にする言葉には難しい言葉が多い。菖蒲さんの元に通い始めてから、僕は随分と語彙が増えた。 「オンとオフを切り替える時に、何か頭の中に浮かんでいる映像があるか、ということだよ」 「ああ、それなら」  すぐに思い至ったので、口にする。 「矢です」 「矢? 弓矢の矢?」
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