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「でも僕、実際の所、本当にこれまでの人生で矢に触れる機会なんて無かったんですけど?」
「そんなことはないさ」
そう言って、菖蒲さんが顔を近づけてくる。僕の頬に菖蒲さんの額が触れるかというくらいの近い距離まで顔を近づけて、くるりと瞳を上に向けて僕を至近距離から見上げる。
「君の頭の中にその矢の心象イメージが生まれたのは、君がモトムラくんを打倒した次の日、この部屋で目覚めた時じゃないかな?」
驚く。どうして菖蒲さんにはそんなことが分かるのだろう。まったく、菖蒲さんの言う通りだ。
あの日、何とかこの菖蒲さんの日本語教師滞在所まで辿り着いた僕と理子は疲れ果てて眠りに付き、昼過ぎまで眠り続けた。起きたのは午後の授業も終わろうという時だったろうか。目を覚ますと、僕の頭の中には一本の矢が存在していて、何故だか僕はエンパシーのオン/オフが出来るようになっていた。
「もし、そうなら、やはり優希が抱いているその心象イメージの矢は、『既存』から生まれた『模造の矢』だよ。生成過程は、ちょっと特殊なモノかもしれないけどね」
至近距離で目が合ったまま、僕は素直な感想を口にする。
「これから僕はどうすればいいんでしょう?」
そんな僕の問いかけに、菖蒲さんは瞳を閉じると、こう答えた。
「基本的に矢は折ってスイッチはオフにしておけばイイ。今までの優希は現存世界に降り注いでいる痛みのシャワーを浴び続けていたようなものだから、オフにして浴びないで済むならそれにこしたことはないさ。こんな時代だ。他人の痛みを自分の痛みとして共感し続けるなんて、一種の自殺行為だ。」
◇
菖蒲さんの部屋を後にする。
アドバイスされた通り、イメージの中で模造の矢を折ってスイッチをオフにしたまま歩き出す。
ただ、そういう意図があったのかどうかは分からないけれど、菖蒲さんのアドバイスは少し手遅れだったような気がする。
僕と菖蒲さんが出会ったのは、僕がこのスイッチを手に入れるよりも随分前だ。
その頃の僕は無造作に他人の痛みを自分のものとして感じ続けていた。
だから僕は、既に菖蒲さんも「痛み」を抱えながら生きている人間だということを知ってしまっていた。
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