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仄かな夕日に頬を染めて、少女は言った。
「当店では、お金は頂いておりません。
その代わり、何かお客様のものを頂ければと」
わたしのもの?
急にそんなことを言われても困ってしまう。
わたしはこの年頃の娘が喜ぶようなものを、何か持っていただろうか?
とっさにワンピースのポケットを探ったが、のど飴の包み紙の感触くらいしかない。
ハンドバッグを開けようと手を伸ばした時、わたしの手に、長い髪の毛が絡んでいることに気がついた。
さっき髪を直した時に抜けた、染め残しの白髪だ。
「それを、頂けませんか?」
「え?
この髪の毛を?」
「はい。遺髪の習慣は、日本だけじゃなく世界中にあるものです。
その習慣に習うのはいかがでしょうか?」
なるほど。代金と言うよりは、わたしの形見が欲しいらしい。
でも──
「わかった。
でもこんな白髪じゃ恥ずかしいわ。
別の髪を抜くからちょっと待ってて」
そう言って頭に伸ばしかけた手を、少女の手が止める。
ひんやりしてるけど、とても柔らかい手だった。
「何も恥ずかしいことなんてありませんよ。
お客様が一生懸命積み上げてこられた、人生の道程じゃありませんか」
「……え?」
驚くわたしに、彼女は尚も言葉を継ぎ足した。
「嬉しいことも、悲しいことも、成功も、失敗も。全てその時その時の、お客様の精一杯の生き様。
そんなお客様の人生に、恥ずべきことなんて何もなかったんですよ」
わたしはキョトンとして少女を見つめる。
そして少しの沈黙の後、真面目くさったその真顔に、思わず吹き出してしまった。
「全く、あなたは何なの?
まさかこんな若い女の子に諭されるなんて、まいっちゃうわね」
言いながら髪の毛を手渡すと、彼女はそれを両手で大事そうに包んだ。
夕暮れの静寂に、低く響く音が紛れ込んでくる。
あれは船の汽笛だろう。
そろそろわたしは、行かなくちゃいけない。
冬の布団を抜け出すように、意を決して立ち上がると、わたしは最後にもう一度少女の顔を見つめた。
この子もいつかは、海の向こうに行くのだろうか?
もしもまた、あっちで会うことができたなら──
「もしまた会えたら、今度こそ聞かせてね。
あなたの積み上げてきた、道程を」
立って並ぶと、彼女はずいぶん背が小さい。
今度は見上げる側になった大きな瞳が、ほんの僅かに頷いて返した。
【第2話・完】
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