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静かな大気を揺り起こす低音域の音が、遠くの沖から聴こえてきている。
それが船の汽笛だと気づいた時、俺は泣き張らした顔に無理矢理笑顔を作り、顔を上げた。
「そろそろお別れみたいだな。
これは、世話になったお礼だ。受け取ってくれるだろ?」
「ありがとうございます。
大切に致します」
大きなウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、少女に手渡そうとした間際、俺は一瞬躊躇して口ごもる。
「あ、あのさ、ちょっとだけ。
最後にちょっとだけさ、もう一度このぬいぐるみ、抱きしめてもいいかな?」
「もちろんです。
お気のすむまで」
俺は少し照れてから少女に背を向け、そしてぬいぐるみを思い切り抱きしめた。
フカフカの柔らかい感触の中で、愛香の笑顔が花のように弾けた。
(パパ、いってらっしゃぁい!)
うん、行ってくるよ。
さっきよりも幾分近くなった汽笛が、沖のほうから俺を呼んでいる。
苦笑を浮かべてゆっくりと振り返り、今度こそぬいぐるみを少女に手渡した。
「メリー……クリスマス……」
大きなウサギを抱きかかえた少女は、なんだか急にあどけなく見え、思わず目を細めてしまう。
そんな彼女の目元は、よりいっそう娘に似て見えた。
夕暮れの太陽光が、レストランの店内をセピア色に染め、長くなった少女の影が、俺の足元に触れている。
その影にぬくもりを探すみたいに、しばらく見下ろした後。
そっと影から離した足を、俺は長い旅路の一歩へと踏み出したのだった。
【第3話】
完
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