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私の訴えにも父は何も言わず、黙って玄関に向かった。その足に女が絡みついた。
その顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。
「もう……あなたしか……あなたしか頼る人が……!」
「馬鹿な女だ。黙って私の側にいればよかったものを……」
女の顔にさっと朱が差した。
その時、ぎりぎりと何か音がしていることに気がついた。
はっと下を向くと、彼女の夫が千切れんばかりに拳を握り締め、歯を食いしばっているのだった。
音はその歯軋りの音だったのだ。
次の瞬間には夫の姿は私の視界から消えていた。あっと思った時には父の体が床に吹っ飛んでいた。
「貴様……!貴様っ!!」
ああ、私はその時、鬼を見た。
肩を大きく震わせ、夫は仁王立ちをしていた。
その形相がすでに人間のものではなかった。
父はゆっくりと立ち上がり、唇の端についた赤いものを拭うと、ふと笑みを浮かべ、背中を向けた。
私はその修羅場の恐ろしさに思わず、立ちすくんでいた。気がつくと、カバンをきつくきつく握り締めていた。
「来い。海杜。もうここには用はない」
その父の言葉が呪縛を解く呪文であったのか。私は身体の自由を取り戻し、慌てて二人の間を通り抜け、出口に向かった。
その時、ふと視界に入ってきたのは、襖から覗く、小さな視線だった。
その小さな少年の目が私を捉えていた。
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