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無情な呼び出し音に息を吹きかけて、藤谷洸野は電話を切った。今日最後の仕事である。どうしても仕事相手と連絡が取れず、洸野の立てた企画は進まずにいた。だが、アポイントさえ取れない相手への罵倒を、ぐっと飲み込む。
恋人の誕生日である。罵る言葉より愛を囁きたい。
同郷の石崎日世子と付き合い始めたのは、東京に来てからだ。それでも三年になる。そろそろ結婚を決めたかった。帰省を今日に合わせたのは、そのためだ。
指輪は右胸のポケット、切符は左ポケット。コートの下のスーツは一張羅のブランド物で、革靴は磨きたてだ。
優しげな面立ちには、緊張が漲っている。洸野は肩で息をついて何度もそれを解そうとする。
新幹線についてきた突風に首を竦めて、洸野は旅行鞄を引き寄せた。十一月の冷気は都会でも鋭い。乗りこんだ車両の暖房の排気音を背に、席を探す。目当ての席はすぐに見つかった。
そこでは男が、爆睡していた。
洸野は再度、切符を確認した。彼女の座る予定の席の、隣である。間違いなく、自分の席はそこだった。
大雑把な男に見えた。顎に髭の剃り残しがある。黒のダウンジャケットを着てモスグリーンのジーンズを履いていた。大口を開けた間抜け面だ。ウインタースポーツを楽しむつもりなのだろう、荷台に置かれた鞄は大きい。スーツケースも足元にある。
車内はそれほど混んでいない。適当な席に座ったのだろう。
洸野は溜め息をついた。乗りこんでくる彼女のために、声をかけなければならない。
「すいませんが…席をお間違えではないですか?」
「んあ?」
男が妙な声をあげ、手の平で両目を洗うように擦る。顎のよだれに触れ、顔をしかめて、ごそごそと出したハンカチで手を拭った。
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