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「…何時だ?」
「…八時十分です」
洸野は腕時計をちらりと見て告げた。
教えてやる義理はないが、善行をすれば幸先も良いだろう。今日は人生を賭ける日だ。
「Thank you…」
ネイティヴの発音で礼を言って、男は眠りに戻ろうとする。
「ちょっ、待てっ」
洸野は慌てて男の肩を掴み、目線を合わせた。
「ここは、俺の席。アンタの席はどこだか知らないけど、ここじゃない。どいてくれ」
子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、はっきりした口調で告げる。
「んんー? …あ?」
男が薄目を開けて、座席番号を見るために背もたれを振り返った。洸野をちらりと見て、窓側の席に移動し、そのまま寝ようとする。
「いや、そこも。連れがくる」
「そりゃ俺の台詞だ。他に席が空いてるんだ、そっちに行ったらいいだろう」
男は不機嫌を顔中に表して、鋭い眼差しで洸野を睨んだ。大柄な男が怒気を露わにすると、迫力があった。
「だから! 座席を間違えてるのはアンタ!」
かちんと来て、洸野は荒げた声を出す。
怒鳴った途端、車両の扉が開いた。隣の車両から、どやどやと人が移ってくる。スキー板を全員が抱えている。通路を通る人々の邪魔になった洸野は、座席に身体を押しつけた。
列車はとうに動き出している。洸野は人並みに押され、荷物ごと転倒しそうになった。仕方なく、男の隣に腰掛ける。男のスーツケースが足を圧迫し、洸野の苛立ちは増した。
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