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幼いころの記憶を鮮明に覚えている人は、どれだけいるのだろうか。
「ゆかり先生って覚えてる?」
珍しく夕方に帰ってきた母親の第一声は、それだった。
リビングで勉強していた本山理央は、問題集から顔を上げた。久しぶりに見る母親の顔は、死神を引き連れたように鼻横のくぼみが陰っている。
「名前だけなら」
顔はぼんやりとしか思い出せない。
「亡くなったんだって」
「え?」
「今日、美波ちゃんのお母さんと病院ですれ違って聞いたの。ほら、美波ちゃんのお母さん内科医でしょう? ゆかり先生、ずっとうちの病院に入院してたんだって。知らなかったわ」
「そう」
「まだ若いのにね。残念だわ」
死に慣れている母親は、形ばかりの哀悼の言葉を口にしたあと、風呂場へと向かっていった。帰ってきてすぐにシャワーを浴びようとする日は、必ず手術をした日である。
『亡くなった』
十五歳の理央にとって、それは現実味のない言葉だった。医師である両親は、帰ってくるたびに疲労の表情を見せるけれど元気だし、どちらの祖父母も健在である。
というわけで理央はまだ、身近な死を経験したことがなかった。
急に亡くなったと聞かされても、ピンとこない。
ゆかり先生、という名前は憶えている。子どものころに通っていた保育園の園長先生だ。顔はやっぱり思い出すのが難しい。
しかし、そんな自分を薄情だとは思わなかった。覚えていないものは、覚えていないのだから。
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