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兄貴の部屋のドアをノックすれば、驚いたことに中から顔を出したのは辰巳さんだった。躰の大きい辰巳さんも、兄貴と同じように玄関のドアをくぐるようにして外に出てくる。
「ようクソガキ」
朝からクソガキ呼ばわりされた俺は、ドア枠に頭でもぶつけたら良かったのにって本気で思いながら挨拶を絞り出した。無視できるような度胸なんてない。
「っ…お、おはようございます…」
「くくっ、お前、眠れませんでしたって顔に書いてあるぜ?」
「な…っ」
言い返したいけどまったくもってその通りな俺は何も言えず、部屋を出て煙草を咥える辰巳さんを睨む事しか出来ない訳で。その後ろから姿を現した兄貴には呆れたような顔をされる。
「ねえ兄貴、劉は? ちゃんと起きる?」
「大丈夫だろう」
「うん…」
部屋から出てくるなり兄貴は辰巳さんにライターを差し出しながらそう言ってくれるけど、いくら何でも劉が気を失ってる時間は長すぎはしないだろうか。だいたい俺は、気を失ってる人を見た事なんてテレビの中でしかない。大丈夫だって言われても安心できなくて俯いていれば、突然辰巳さんに煙を吹きかけられる。
――なんでこの人って俺に嫌がらせすんの!?
ちょっとだけ噎せながら顔を上げて思い切り睨むと、辰巳さんは喉の奥でくくっ…て笑った。
「馬鹿じゃねぇのかお前、ケツ掘られたくれぇで人間死にゃあしねぇよ阿呆」
「はあっ!?」
――ちょっと待って、今なんて言ったのこの人っ!?
「若……」
「おーおーお子ちゃまには刺激が強すぎるってか?」
「んな…っ」
完全に馬鹿にされてる。でもその人はヤクザの親分さんな訳で。今は俺を揶揄って笑ってるけど、言い返したらめちゃくちゃ低い声で唸るっていうか、怒る。そんな人に一般人の俺が歯向かえるはずなんてないじゃないか。
でもやっぱり馬鹿にされっぱなしは悔しくてギリギリと歯噛みしてれば、ぬって大きな手が伸びてきて、避ける間もなく頭をわしゃわしゃって雑に撫でられた。
「っ……」
「じゃあな」
揶揄うだけ揶揄って辰巳さんはそう言うと、スタスタと歩いて行ってしまう。呆然と背中を見送ってれば、兄貴に背中を押された。急な事でよろめいた俺だけど、礼くらい言ってこいって、そう言われてハッとする。
確かに、辰巳さんが居なかったら劉を連れてこれなかったんだった。
兄貴のアパートがある細い路地を出たところに、見慣れた黒い車を発見する。ドアを知らない人に開けてもらいながら乗り込もうとする辰巳さんが見えて、俺は慌てて声をかけた。
「あぁあのっ、辰巳さん…っ!」
「あぁ!? 何だテメェ!!」
「ヒッ…」
――嫌な予感はしてた! してたけど…っ、怖いよもう…!
辰巳さんよりも先にドアを開けてた人にものすっごく睨まれて、俺はそれ以上近付けなくなる。けれど。
「朝からがなってんじゃねぇよ鬱陶しい。ありゃあ設楽の弟だ阿呆」
「えっ! 叔父貴の弟さんっスか! 失礼しましたッ」
「お、おじ…?」
――叔父貴って何だろう…。よくわかんないけど…お礼を…。
まさしく『コロッと』って表現が似合うくらい態度が百八十度変わったその人に、引き攣った笑いを返してたら辰巳さんの面倒臭そうな声が聞こえてきた。
「で? 何の用だよ」
「あっ、あの…っ、昨日はありがとうございましたっ」
「はぁ?」
「ぃやだって…その…、辰巳さんが居なかったら劉の事連れて帰って来れなかっ…」
「劉だとッ!?」
言い終わる前に、ドアを開けてた人が急に大声を出して俺は声を途切れさせた。しかも辰巳さんも舌打ちしてる。
――え? なんか俺…マズい事言っちゃった…の…?
そう考えて、そう言えば辰巳さんって、劉に攫われたんだったって思い出す。
――ヤバい…かも…。
あっという間に兄貴のことを叔父貴って呼んでた人が詰め寄ってきて、胸ぐらを掴み上げられる。その迫力が凄くて、俺はその場で固まった。
「テメェ、劉を連れて来たってどういう事だああ?」
「ぃいいぇあのっ、人違っ…人違いです…っ!」
「適当な事抜かしてんじゃねぇぞコラ!」
「ひっ…ごめんなさ…っ」
怖くて涙目になりながら目を閉じて謝ってたら、もの凄く鈍い音がすぐ近くで聞こえて、俺は解放された。何事かと恐る恐る目を開ければ、俺に詰め寄ってた人が目の前で頭を押さえてしゃがみ込んでる。しかもすぐそばに辰巳さんが居て、俺は何が起きたのか把握した。
――絶対この人殴った…。
「朝からぴーぴーうるせぇんだよクソが。劉は関係ねえっつっただろぅが。手下が勝手にやった事でいちいち目くじら立ててんじゃねぇ」
「申し訳…ないっス…」
――大の大人が…しかもヤクザの人が涙流すほど痛いって、どんだけこの人力あるの怖い…。
「おいクソガキ、お前もお前で分かっただろぅが」
「は、はい…」
「ったくこれだから堅気のガキはめんどくせぇ」
舌打ちして不機嫌な態度と声。怒ってる辰巳さんは、もの凄く怖かった。
「ぁ…あの…」
「あんだよ」
「すみません…でした…」
辰巳さんの態度を見れば、きっと劉をかばってるのは辰巳さんと兄貴だけで、やっぱり親分さんを誘拐されたら組の人たちは黙ってはいられないんだと思う。それなのに不用意に俺が名前を出したのがいけないんだ。
でも、怒った辰巳さんは『劉は関係ない』って、『手下がやった』って言ってた。それがもの凄く気になって聞きたかったけれど、これ以上劉の話ができる雰囲気でもなくて。
「いいからお前、設楽んとこ戻れ。お前がいなけりゃ兄貴が動けねぇだろうが」
「はい…」
「最初に押し付けたのはこっちだからな、バイト先には話通しといてやる。気になるなら電話で確認しろ」
「え…」
いいからさっさと行けと、犬でも追い払うような仕草で手を振る辰巳さんに俺が歯向かえるはずもない。それに、兄貴が動けないってきっと、ちゃんと劉に付き添っててくれてるって事で。だから兄貴はいつまで経っても来なかったんだって、この時初めて分かった。
ヤクザってどんな仕事してるのかは分かんないけど、いつまでも時間をとらせてるのも悪いって事だけは確かで。俺は辰巳さんに頭を下げてアパートに戻った。
アパートの前に兄貴はいなくて、ドアをノックすれば入れ替わりに兄貴が外に出る。
「あの…兄貴、知らない人の前で俺、劉の名前出しちゃって…辰巳さん怒らせちゃった…」
「若は何て言ってた」
「劉は関係ないって、手下がやった事だからって、言ってくれたけど…」
「まあ、そうだろうな。そう言う事にしてある」
「本当は…違うんでしょ…?」
それを聞くために俺はここに居る訳で。劉と、きちんと話をして本当の事を知りたい。
「話聞けたら…、兄貴に言った方が良い…よね…?」
「別に俺はどうでもいい。若が劉は関係ないというのなら、俺にとってはそれが答えだ」
「そっか…」
「自分だけ知ってるのが辛いなら後で話くらいは聞いてやる。取り敢えず頼んだぞ」
「うん…」
相変わらず歩けばミシミシと音をたてる床を踏みしめて和室へ行くと、部屋のど真ん中に敷かれた布団の上に劉が寝てた。
――昨日より、顔色良くなってる…。よかった…。
布団の端っこに座り込んで劉の顔を覗き込む。眠ってる劉はやっぱり綺麗で、思わず見とれてしまうくらいだった。
「劉……」
小さく名前を呟きながら、艶やかな黒髪を指で掬い上げる。それだけでもう、なんだか幸せな気持ちになれる俺って、きっと単純で。でもそんな幸せな気分は盛大に鳴った俺自身の腹の音にぶち壊された。
――マジもう…、俺最悪じゃね…。
出掛ける前に、朝飯を作ってあるって言ってた兄貴の言葉を思い出して立ち上がる。辰巳さんのおかげですっかり忘れてたけど、俺って腹が減ってたんだった。
流しの横には何もなくて、冷蔵庫を開けたらどんぶりが入ってた。中身は麻婆丼だ。ラップのかかったどんぶりの上には小皿が乗ってて、漬物みたいなのが入ってる。小皿をどかしたらラップの上に『2:30』って書いてあった。
いったい何の数字? って思ったけれど、すぐに温める時間だって思い至って兄貴って結構几帳面なんだなって思う。
初めてここへきた時にも思ったけど、他にも冷蔵庫の中には色々食材が入ってて、兄貴はしっかり自炊してるんだってすぐに分かった。空の卵のパックが入ってるうちの冷蔵庫とは大違いだ。
――躰鍛えてるみたいだし、やっぱ食事とかも気ぃ使ってんのかな。
これといって何をするでもなく電子レンジを見つめてれば、中のものが温まるにつれて美味そうな匂いが漂ってくる。
――く…っ、拷問…!!
窓の横に表示された減っていく数字がゼロになるのを待たずに、俺はレンジを開けてた。それは我慢できなかったからじゃなくて、音が鳴ったら劉が起きちゃうかもしれないからだ。けっして、断じて、我慢できなかった訳じゃない。
流しの横でラップを外すとめちゃくちゃいい匂いがして、つられたように腹がくぅ…って…。一緒に用意されてた小皿には、刻んだ高菜の漬物。細かく刻まれてて食べにくいじゃんって思ったけど、もしかしたらこれは麻婆丼に入れるんじゃなかろうかって気付いたのは、ご飯がちょうど顔を覗かせてたからだ。
――麻婆豆腐に高菜…?
よくわかんないけど取り敢えず面倒になって小皿をひっくり返す。スプーンとどんぶりを持って和室に戻った俺は、端っこに退けられてたテーブルで『いただきます』って手を合わせた。
冷蔵庫の中には同じどんぶりがもうひとつ、ちゃんと用意されてた。漬物の入った麻婆丼なんて初めて食べるけど、一口口の中に入れたらめちゃくちゃ美味かった。
「うまっ」
市販の麻婆豆腐の素とはなんか違くて、唐辛子の辛さってより山椒っぽい味。なんか普通に店とかで出てきてもおかしくないんじゃないのこれ。
――兄貴ってもしかして料理上手い…?
腹が減ってた俺はあっという間にどんぶりの中身を平らげた訳で。食器をさげてぼんやりしてたら今度は猛烈に眠気が襲ってくるのも当然の事だった。
――うう…、眠い…。
劉が目を覚ました時に俺が寝てたらまた居なくなっちゃうかもしれないって、そう思うと怖くて寝たくない。けれど、目の前には布団があって。しかも大好きな人が横になってる。
――ちょ、ちょっとくらい寝ても…いいよね…?
心の中で誰にともなく言い訳をした俺は、劉の隣にゴソゴソと躰を潜り込ませた。
布団の中はあったかくて、すぐに睡魔が襲ってくる。劉の長い髪を挟んだりしないように気を付けながら、祈るように肩に額をくっ付けて俺は眠った。
◇ ◇ ◇
なんだか俺はとんでもなく幸せな夢を見てた。だって劉がすっごく優しい顔で俺の頭撫でてくれてるんだ。これって俺の願望だろうか。
――ああ、ずっとこのまま夢の中で劉に撫でられてたい…。
と、そんな事を思った俺だったけど、あっさりと夢の終わりとともに目を覚ましたのは言うまでもない。
「ぅぅ……」
「起きたか?」
「ん…ぇ? 劉っ!?」
聞き間違えようもない声に飛び起きれば、布団の上に躰を起こしてた劉がちょっとだけ困ったように微笑んだ。
「ごめん俺寝ちゃってて…ってか劉寝てなくて平気!?」
「そんなに慌てなくても大丈夫だ」
「あ…っ、うん…ごめん…」
「また世話になってしまったな…」
そう言った劉の表情は辛そうで、俺は無意識に劉の袖を握ってた。
「要…」
「劉が…中国のマフィアの偉い人だっていうのは聞いた…。本当は…、もっと早くに兄貴が教えてくれてたんだけど、その時俺…、兄貴の話聞いてなくて…。っていうか、その…あの…」
ちゃんと話をしなきゃって、そればかりが頭の中をグルグル回って、どこから話したらいいのか分からない。どうして兄貴の話を聞かなかったのか言おうとしたら、結局それって告白するようなものだと思えばやっぱりまだ言える勇気が出ない。
取り敢えずその場をお腹は空いてないかと誤魔化した俺は、兄貴の作った麻婆丼を劉の為に温めた。
――うう…。俺の意気地なしっ!!
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