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劉は自分でスプーンを持てるようになってて、それだけが俺の心をほっとさせてくれる。
――良かった。怪我、少しは良くなってるんだ…。
「要? この野菜は何だ?」
「それ高菜っていうの。日本の漬物だよ」
「ほう?」
美味しかったから高菜もちゃんと入れて出したら、やっぱり不思議がられた。でもなんだかそんな会話をしてたらちょっとだけ心が落ち着く。珍しそうにスプーンに乗せた高菜を見てる劉が何だか可愛く見えてくる。
――でも駄目だ。ちゃんと話しなきゃ…。
逃げてても何の解決にもならない。それどころか劉に気持ちも伝えられないままだって思えば否応なしに時間が過ぎていく。焦りばかりが俺の中にはあって、ずっとこのまま時間が止まってしまえばいいのにって、そう本気で思った。
当然、劉は麻婆丼を食べ終わってしまって、俺は最後の悪足掻きに食器を洗ってる。
――うう…、何て言って切り出したらいいんだ…。
ノロノロと洗い物をして和室に戻れば、劉は変わらずテーブルの横に座ってた。
「要、そんなに緊張しなくていい。お前が言いたい事は分かっている」
「うん…」
隣に座っていいかと聞けば劉は一瞬驚いたような顔をしたけど、その後でいつもみたいに優しく微笑んでくれた。
「俺も…劉に伝えたい事があって…。でもその前に聞きたい事もあって…」
逃げられたら嫌だなって思ったら、いつの間にか俺は劉の袖を掴んでた。しかも情けないくらいに袖を掴んだ手が震えてた。顔なんか全然見る余裕っていうか勇気もなくて、ずっと俯いてる俺にはもちろん劉がどんな顔をしてるのかなんて分からない。見たいと思う反面、呆れたり嫌そうな顔してたらどうしようって、やっぱり怖くなる。
「私は…、私もお前に話さないとならない事がある。だから顔を上げてくれないか」
劉の声はいつも通り穏やかだけど、少しだけ緊張してるような気がする。
「要…、お前が私に懐いてくれるのは嬉しいが、私は……フレデリックが言うようにお前を騙している」
「それって、辰巳さんを誘拐した事?」
「それもそうだし、他にも私はあの二人に酷い事をしたんだよ。だからこれ以上お前の近くには居られない。また、お前をあんな目に遭わせたくはないんだ」
「……話してくれる気はないの…? 俺じゃやっぱ頼りない?」
「そうではなくて、私はお前を巻き込みたくない。お前が聞きたいというのなら、話はする」
劉の口振りは、話はしてくれても離れるのが前提で俺は悲しくなってくる。ちゃんと話を聞いて、俺の気持ちも劉に聞いて欲しいのに、最初から拒絶されてるようで辛かった。
「その両手…あの人がやったんでしょ? 劉は過ちの代償だって言ったけど、そんな大怪我させられたのに…それでもまだ許されない過ちなんてあるの? 酷い事しちゃったのかもしれないけど、劉にだって理由があったんだよね? 俺…劉の事ちゃんと知りたい。それで…、劉にも…俺の事ちゃんと…し、知ってほしい…っ」
相変わらず顔を上げられないままの俺には、劉がどんな顔をしてるかなんて分からなかった。ただ、袖を掴んだまま情けないほど震える手に劉の包帯を巻いた手が重なっただけで、肩が震えるのを自覚する。
「要、頼むから顔を上げてくれないか? 私の話を聞いてもなおお前の気持ちが変わらないでいてくれるのなら、その時はちゃんとお前の事も教えてくれ」
それから、劉はちゃんと全部を俺に話してくれた。逆恨みと知らずにフレデリックに復讐をしようとした事も、その為に辰巳さんを誘拐して無理矢理性的な暴力を働いたことも。だからフレデリックがあんな風に劉を虐めてたって事も。
「さ、逆恨みって…?」
「それは……」
劉の事情を知りたくて聞いてみたけれど、劉は黙ったまま考え込んでこう言った。
「いや、やめておこう。何を言っても言い訳にしかならない。すまないが、それだけは忘れてくれないか」
「どうしても教えてくれないの?」
「何を言おうと私が間違いを犯したことに変わりはないんだよ、要。どんな理由にせよ、私はフレデリックを一番酷い方法で傷つけた。それに辰巳も。それも、卑怯な手を使ってだ。だから…私はお前のそばには居られない。お前が許そうとも、フレデリックは絶対に私を許さない」
悲しそうにそう言って、劉は微かに笑った。その笑顔は、俺にはとても痛そうに見えて辛くなる。けど、それよりも何よりも辛いのは、劉に拒絶された事だ。俺が嫌いにならなくても、劉はそばには居てくれない。
どうあっても離れるつもりなのだと分かってしまって、胸が潰れそうなほど痛くなる。こんな気持ちは初めてで、俺は思わずシャツを握り締めてた。
「ねえ劉…、劉は…俺の事嫌いな訳じゃないよね…? だからそうやって離れるって、そう言うんでしょ…? それでも…俺は劉と一緒に居たいよ…。どうしたらいい?」
何も言ってくれない劉の決意はきっと固くて。一緒に居たいって我儘を言うのは簡単だけど、絶対に首を縦には振ってくれないって事だけは確かだった。
◇ ◆ ◇
それから一カ月くらい経った頃、俺は仕事帰りに兄貴からのメールで劉が中国へ帰った事を知らされた。
あの日、兄貴のアパートで別れて以来劉には会ってない。連絡先も聞かなかった。劉の言葉を聞けば、今はどうしようもないんだって分かったから。
変わった事と言えば、俺は何故かオーナーの須藤さんに気に入られてバイト先がホストクラブから服屋になった事くらい。まあ、服屋っていうか、SDIグループ傘下のメンズスーツのブランドショップだ。
卒業後は正社員として雇ってくれるって言うし、『まあいっか』って気楽なノリで始めた仕事は、予想以上に覚える事が多かったけど、まあ何とかやっていけてる。卒業までにしっかり仕事を覚えろって、会うたびに須藤さんに言われるのだけがちょっとプレッシャーだけど…。
あと、兄貴とは連絡を取り合ってて、たまに須藤さんと辰巳さんに呼び出されたりする事もある。あの二人は年が離れてるけど古い知り合いらしくて、仕事なんかでも付き合いがあるらしい。まあ、俺が呼ばれた時はだいたい揶揄われて終わる事が多いけど…。
劉は国に帰っちゃったけど、兄貴はもちろん辰巳さんとか須藤さんとか、ちょっと前の俺だったら接点なんてないだろうなって人たちと知り合ったおかげで俺はあまり寂しいとかは感じなかった。というよりむしろ、前よりも賑やかになってる気がする。
――でも、ついに帰っちゃったんだ…。見送りくらいしたかったな…。
せめて遠くからでも…って、そう思いかけて俺は首を振った。やっぱり知らないままでいてよかったって思い直す。だってきっと、劉の顔見たら俺、行かないでって言いたくなる。また劉を困らせる。
着替えをして店を出た。俺の新しいバイト先は、代官山のオシャレな店が立ち並ぶ場所にある。店の前の表通りは華やかで、行きかう人たちもどちらかというと落ち着いた感じ。新宿みたいにゴミゴミはしてない。
従業員用の出口を出たところで大きな伸びをした俺は、けど次の瞬間、目の前に滑り込んできた車に慌てて飛びのいた。フルスモークの国産高級車。しかも足元スレスレに幅寄せする車なんて、俺は一台くらいしか知らない。
――出た…。
兄貴が乗ってるのと同じように見えるけど、兄貴は絶対に幅寄せなんてしない。だからこれは、辰巳さんだ。辰巳さんは案外自分で運転するのも好きらしく、たまにこうして人を拉致しに来る。
案の定助手席の窓がするすると音もなく降りて、面白そうに揶揄うような声で『乗れ』って命令が聞こえてきた。
「あの俺…、仕事帰りで腹減っててですね…」
だから早く帰りたいのだと言いかければ、あっさりと逃げ道を塞がれる。
「おう、ちょうどよかったじゃねぇか。貧乏学生に旨い飯食わしてやんよ。とっとと乗れ」
「う…っ、……はい…」
後半の『とっとと乗れ』って、めちゃくちゃ低い声で脅されたら俺に歯向かえるはずなんてない。一度嫌だって意地張ったら、兄貴をダシに脅された事もある。マジでこの人凄く強引で、歯向かうとすぐ怒るんだ。しかも怖い。
おずおずと助手席のドアを開けようとしたら、後ろに乗れって怒られた。
――先に言ってよもう…っ!
口に出せない分を心の中で突っ込みながらドアノブから手を放し、後ろのドアを開けたところで俺は思わず固まった。だってそこには、見間違いようもないあの男が座ってた。
――え? なんで?
明らかに日本人とは違う天然の金髪。碧い目と、凶暴なほど長い手足。そこにいたのは、間違いなくフレデリックだった。
「やあ、設楽要クン。いつまでもそんなところで固まってると、辰巳に怒られるよ?」
「なんで…」
「話は乗ってからにしろ」
「や…ヤダ…」
思わず後退れば、辰巳さんが鋭い舌打ちをしてフレデリックの名前を呼んだ。
あっという間に腕を掴まれて後部座席に引きずり込まれる。
「ふふっ、これじゃあなんだか辰巳と僕が誘拐犯みたいだね」
――みたいじゃなくて誘拐犯だろっ!?
抵抗する間もなく足元でドアを閉められて、車はあっという間に走り出す。車が動き出しても俺はフレデリックに腰を掴まれ…っていうより抱かれたままで、逃げようがなかった。
「な…っ、なんでっ!? 俺の事どこ連れてくの!?」
「別にとって食おうなんざ思ってねぇから安心しろクソガキ」
呆れたようにバックミラー越しに言われたって、信用できるはずがない。辰巳さんだけならまだしも、フレデリックとだけは会いたくなかった。
「はっ、離して…っ」
「うん? 僕に抱かれるのは嫌?」
「あ、当たり前だろ…っ!?」
ぐいぐいと躰を押しのけようとしてもまったく気にした様子もなく、フレデリックが顔を覗き込んでくる。やっぱりその顔には楽しそうな笑顔が浮かんでて。
――にこにこしてたって騙されないんだからなっ!!
不思議と前ほどは怖くなかったけれど、そんなのはきっと気のせいだ。なんたってこの人はマフィアで…と、そこまで思い出して俺はぴたりと動きを止めた。
――待って…、俺もしかして殺されちゃう!?
あの後ちょっとネットで調べたら、マフィアにはオメルタっていう厳しい掟があって、自分たちがマフィアだってバレたら口封じしたりするって書いてあった。そういえば映画でもそんなのあったなって、ゾッとしたのを覚えてる。
――嫌だ怖いホント助けて…っ。
「おやおや、やっと大人しくなったと思ったら今度は震えちゃって。キミって分かりやすいね」
「お、俺…何も知らないし…っ」
思わずそう小さく呟けば、辰巳さんが運転席で爆笑しはじめる。ハンドルをバシバシ叩きながら笑ってる辰巳さんに、フレデリックが肩を竦めてた。しかもなんだか、困ったような顔してる。
「笑いすぎだよ辰巳…。だいたい誰のせいでこうなったと思ってるんだい?」
「我慢の利かねぇ嫁のせいだろ」
「まったく、キミが妙な嘘を吹き込むからこうなるんじゃないか。若い子を揶揄うのも程々にしておきなよ」
――え? 嘘…? 揶揄う…?
恐る恐る顔を上げてフレデリックを見る。
「可哀相に。辰巳のお芝居に騙されちゃったんだね」
「お芝居…? どういう事…ですか…?」
「キミは辰巳に、僕がフランスのマフィアだって聞かされたんだろう? それで、そんな風に僕を怖がってる」
確かにそうだ。っていうか、そうじゃなかったら納得できない事はたくさんあって…。
――あれ? でも劉は? 劉は別にフレデリックに悪い事をしたとは言ったけど、マフィアだなんて言ってない…。あ、でもそれじゃ両手の怪我は説明がつかない…。
もうすでに俺の頭の中はパンパンで、何が何だか分からなくなってくる。誰の言ってる事が本当なのかも。
「だいたいこんなところにマフィアがいるはずないだろう? 僕はイギリスに本社があるクラシック・ライン社所属のただの航海士。つい最近まで『Queen of the Seas (クイーン・オブ・ザ・シーズ)』っていう大型客船でキャプテンをしてたんだよ?」
何なら身分証を見せようか? って首を傾げられて、俺は小さく頷いてた。
「あ…、でもその船の名前なら聞いたことある…」
「光栄だね」
そう言ってにっこりと微笑んだフレデリックは何だか劉と居る時見た人とは別人のように柔らかな笑顔で、俺は思わず赤くなる。
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