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あの時劉はフレデリックに復讐しようとしてたって俺に言った。その理由を、逆恨みだと知らずにと、そう言ったんだ。つまりその逆恨みの原因が、フレデリックなんじゃないかって俺は思った訳だ。そう考えれば、劉が急に口を閉ざしたのは、俺にフレデリックの素性を話さなきゃいけなくなる事に気付いたんじゃないかって推測がたつ。
辰巳さんが俺に本当の事を言った後で騙しただけだと言ったのは、フレデリックも辰巳さんもそれを隠したいからなんだろうと思う。
兄貴の運転する車の中で辰巳さんが言ったのは本当の事で、その時辰巳さんは”素性を隠して存在自体を非公然にしてる”って、そう言った。つまりはそう言う事。
俺が騙されて知らない振りをしている限り、フレデリックは見逃してくれる。
確証がある訳じゃないけれど、そう考えれば兄貴が言った言葉の意味も理解はできた。
『お前には想像もできないだろうが、大事にすれば間違いなくあの男はすべてをなかった事にする。俺たちが何を言おうが、証拠も何も残さずに事を終わらせる。俺たちとあの男は、住んでる世界が違う』
あの時兄貴は、ちゃんと本当の事を俺に教えてくれたんだと思う。そうじゃないと俺が、警察に駆け込みかねなかったから。明確にマフィアだって言わずに伝えられるだけの事を兄貴は伝えてくれてたんだとしたら、俺の答えはきっと間違ってはいない。
――相当ヤバいんじゃないのあの人…。三年前深く考えずに騙されといて正解だよなきっと…。
かくして大人しく騙されているフリを続けている俺の考えは、きっと劉なら答えを知ってる筈だった。
こんな店の中で何かが起こるとは思えなかったけれど、どうにも拭いきれずにいた俺の不安が的中する事もなく、三十分ほどで辰巳さんはフレデリックとともに部屋から出てきた。
「おう、待たせたな。後は勝手にしろ」
「え…? もう帰るんですか?」
開いたままのドアからは、こちらに背を向けたままの劉が見える。何かをされた様子もないその姿に、心の底から安堵した。
「当たり前だろぅが。こっちの話が済めばもう用はねぇよ」
あっさりとそう言って歩き出す辰巳さんの後ろにいるフレデリックと目が合って、俺は思わず躰を強張らせた。
「キミは、演技が下手だね」
クスって笑いながらそう耳元で囁くフレデリックの長い指が、俺の唇に触れる。それはまるで、シー…って、内緒話をする時みたいな仕草だった。
――バレバレって事かよ…。ホントあの人質悪い…。
ともあれ、大根役者っぷりを見逃してくれたフレデリックよりも、もっと大切な事が俺には残ってる。
辰巳さんとフレデリックが廊下の角に消えるのを見送って、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。
――やっと…会えた…。
走り出したいくらい気持ちは逸っているのに、情けないくらい足が震えてた。たった数歩の距離がやけに長く感じてどうしようもない。やっと…、本当にやっとの思いで劉の後ろに辿り着く。
「劉…」
名前を呼んだら止まらなくて、劉を後ろから抱き締めてた。
「会いたかったっ、劉!」
「要…」
「ねぇ劉…今度こそ、あの時の答えを聞かせてよ…。俺のこと…嫌いじゃないって…、好きって言って…?」
祈るような気持で吐き出した言葉は、情けないくらい震えてた。劉を抱き締める腕も震えが止まらなかったけれど、離したくない気持ちだけは確かで。俺は絞り出すように劉に告げた。
「我喜欢你」
「我爱你」
「っ…!」
狡いって、そう思う。そう思いはするけれど、もの凄く俺は幸せで…。
昼を過ぎたばかりでまだ日も高い中、俺は劉に連れられて店を出た。店から出ればすぐに車が横付けにされるのは、日本のヤクザも中国のマフィアもどうやら同じらしい。しかも車の雰囲気まで似てるのは何故だろうか。黒くて、中が見えなくて、見るからにガラが悪いっていうか、そういう決まりでもあるのか? ってくらい似てる。
――って、よく見たらこれ日本車じゃん…。そういえば中国の人って結構日本の製品好むって須藤さんも言ってたっけ…。
そんな事を思い出しながら車に乗り込んだ俺は、さりげなく腰に腕を回されてびっくりする。
「りゅ、劉…っ」
「どうした?」
「だっ、だって急に…、こ、腰に腕回すから…」
「嫌か?」
「嫌じゃない…」
――劉も、やっぱ同性とかあんま拘りないのかな…。
そう。俺がまず香港に赴任してきて驚いたことは、日本よりも香港は同性愛者に寛大な事…だった。それはもう躊躇いもなく男同士手を繋いで歩いてるカップルなんてそこら中にいる。もちろん、女性同士も。
変な目で見られることがないのは喜ぶべき事だとは思うけれど、いざ自分がってなるとこう恥ずかしいというか、こそばゆいというか、照れくさいというか…。
「要は、少し背が伸びたな」
「前よりはね。もう止まったけどさ…」
「それくらいでちょうどいい。お前の兄のように大きくなられたら、私が困ってしまう」
「う、うん…」
背が伸びたっていっても、俺の身長は百七十七で止まったままだ。三年前は百七十二センチ。たった数センチなのに劉は気付いてくれて、ちょっと嬉しくなる。
それから色々お互いの事を聞いたり、話したりしながら連れていかれた場所は、銅鑼湾から車で十分ちょっとくらいの場所に位置する香港島の南側。ディープウォーターベイを見下ろす一軒家だった。正直、俺はその広さに驚きを隠せない。
――なにこれ、香港にこんな場所あるの…?
香港の住宅事情は恐ろしいくらいに悪い。その上不動産価格がもの凄く高い。俺は会社が用意してくれたマンションに暮らしてるから感じたことはないけれど、現地のスタッフの話を聞くと、とんでもない狭さの家でもかなり家賃が高いそうだ。言われてみれば確かに縦に細長い建物が凄く多い。それにしても…と、そう思う。
劉の家だという建物は三階建てで、敷地も広くて庭にはプールどころかテニスコートまである。
――マジかよ…。
地区によってはアパートみたいな建物の上に掘っ立て小屋みたいなのが建ってるような場所もあるというのに、いったいこの差は何なんだろうか…。確かに東京も兄貴のアパートと表通りでは全然違うけど、ここまで差は激しくないと思う。
家の中に入れば、数人の女性が働いてて、聞けば全員住み込みのお手伝いさんらしい。
「要は日本人だからここでは驚くことが多いかもしれないが、彼女たちはアマと言って、どこの家庭でも雇っている」
「そっ、そうなんだ…」
「お前が許してくれるなら、私はここで共に暮らしたい」
「へ…っ!?」
「そんなに驚くこともないだろう? 私はお前を愛している。お前も、私が好きだと、そう言ってくれたのではなかったのか?」
――言った! 確かに言った!! けど…っ!! 急展開すぎやしないかと思うのは俺だけだろうか!?
相変わらず穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、こんなに自己主張の激しい劉を見るのは初めてで戸惑ってしまう。
「ま、待って劉…。嫌な訳じゃないけど…話が急すぎて…」
「仕事を続けていくというのなら、送迎も手配しよう。もちろん、辞めたいというのならそれでもいい。お前を養うくらいの経済力は私にもある」
「わっ、分かった! 分かったからちょっと考えさせて!!」
「分かった」
そう。香港人は思った事をはっきり口にしないと理解してくれないという事を、俺はこの一カ月で学んだ。日本人みたいに言わなくても分かるだろうなんて考えてたら、彼らには理解されない。その代わり、言いたい事をきちんと言えば、香港の人たちは大抵理解してくれる。はっきりしない態度が、一番駄目なのだ。
それを思えば須藤さんが三年前に俺を止めてくれた理由は、完全に的のど真ん中を射ていた。
――あの頃の俺だったらヘタレすぎてやっていけない…。
取り敢えず劉が理解を示してくれた事に安堵し、俺はポケットからスマホを取り出した。劉に絡むことは事の大小にかかわらず直接連絡しろと、須藤さんに言われてる。だから俺は、劉に会えたこと、それから同居の相談をしてみようとそう思った。
メールを打って送信すると、なんだかほっとしてしまうのは、須藤さんが本当に頼りになるからだ。あの人がいなかったら、俺は今ここに居ない。
庭が見える広い部屋。窓際に配置されたソファへと、劉に腰を抱かれたまま誘われる。劉が、俺を完全に女性扱いしている気がしているのは、間違いのないところだろう。ついでに言えば、香港人の男性は、めちゃくちゃ女性に優しい。
けれど、それはそれで俺としては困ってしまう事がただ一つある。そう。それは男同士だからこそ生じる問題…。まあ、端的に言えば上か下かって話だ。
――このまま行ったら、確実に俺が下だよなぁ…。
それは困る。正直とても困る。劉の事は好きだけど、抱かれたいとかそういう気持ちは全然ない。っていうかむしろ抱きたい。長い髪を優しく撫でながら劉の綺麗な顔を愛でていたい。
――っていうか劉はどうなんだろう。
そんな事を思いながらぼんやりと劉の綺麗な横顔を見つめていた俺は、無防備なその頬に思わず手を伸ばしてた。
「要…?」
「あ…、ごめん…」
「どうして謝るんだ? お前に触れられるのは嫌いじゃない」
「うん…。綺麗だなって…思って」
恥ずかしいとは思うけれど、正直に言ったら劉は微笑んでくれた。それからなんとなく流れでキスをして抱き合う。それだけで幸せになれる俺ってもの凄くお手軽なんじゃないかって思うけど、それだけ劉の事が好きなんだって思ったらなんかもういいやって諦めがついた。
「っん…ぅ、劉…、好き…っ」
口付けの合間に囁けば、ぎゅって強く抱き締められる。
「私も愛している…要」
いつもより少しだけ低く掠れた劉の声。気付いたらソファの上に押し倒されてた。
「待っ…て、りゅ…っん」
言いながら僅かに身じろげば、劉が上体を起こした。待ってくれるのかと思いきや、ほとんどが肩より前に落ちた長い黒髪を、首筋に滑らせた手で後ろにやりながら劉があっさりと言い放つ。
「待てない。三年間、幾度お前を攫いに行こうかと考えた」
劉は胸のポケットから幅のあるリボンのような長い布をするりと抜き出すと、あっという間に髪を束ねて結わきながら続けた。
「これ以上…待ってなどやらない」
再び倒れ込んだ劉に首筋を甘噛みされ、耳朶を唇に食まれる。ひたひたと耳元で響く水音が生々しくて、俺はきつく目蓋を閉じた。
「ぁ…っ、りゅ…ぅっ、劉…っ」
「可愛い、要。私は…お前のものだ」
誰のものにもならないでと、そう言ったのは俺で。それを劉はちゃんと覚えててくれてる。
「あの時は逃がしてしまった…。いや、逃がさざるを得なかった。だが、今は違う」
要…と、何度も名前を呼びながらたくさん口付けられるのは、恥ずかしいけど気持ち良い。もの凄く大事にされてるような気がして、幸せで泣きたくなってくる。
恥ずかしいと、そう口にすれば劉は微笑みながら小さく謝って寝室へと案内してくれた。部屋の真ん中にドンと置かれた天蓋付きのベッド。というか中華風のそれは、寝台って言葉の方がしっくりくるような代物だ。
「ここ、劉の寝室?」
「ああ」
「なんか、兄貴の部屋にいたのが信じられないね」
六畳の狭い和室にいた劉しか俺は知らなくて。こんな広い家に住んでるのにあんな場所に居たなんて、どれだけ不便だっただろうなってそう言えば、劉は柔らかく微笑んだ。
「要が一生懸命慣れない世話をしてくれるのを見ているのは、存外楽しかった」
「恥ずかしいから思い出さなくていいよ…」
「今みたいに、顔を真っ赤にしてた」
言いながら頬を撫でられてしまっては、俯くしかないけれど。
「顔を上げて、要。お前の可愛い顔を、もっとよく見せてくれ」
三年経つ今でも傷跡の残る両手は痛々しかったけれど、初めて劉の手に触れられてると思うとなんだか感慨深い気もする。
「もう、痛くなったりしないの?」
「大丈夫だ。お前の兄が、腕の良い医者に連れて行ってくれたおかげだよ」
「そっか。…ならよかった」
劉の掌を包み込んで口付ける。僅かに凹凸がある傷跡を舌で辿ると、劉が嬉しそうに目を細めた。
それから、会えなかった時間を埋めるようにぎゅっと抱き合って、躰を重ねる。緊張しないって言ったら嘘になるけど、それよりも何よりも嬉しくて。
「劉は躰も綺麗だね」
「要は、想像していたよりも逞しい」
「っ…それって三年前?」
「ああ」
「それを考えたら、離れててよかったかも…」
正直、あの頃の俺は、劉が想像してる通りひょろひょろしてて。きっと劉の躰を見たら、それこそ自分の躰が恥ずかしくてとんでもなく凹んでそうだ。
俺の言いたい事が伝わったのか、可笑しそうに笑う劉に腰を引き寄せられる。
「あの時、両手が使えなくて正解だったな。そうでなければ、お前に逃げられていたかもしれない」
「否定はしないけどね。ってか、劉はもっと大人しい人だと思ってた」
「想像と違っていて、嫌いになるか?」
嫌いになるかって聞いておきながら、それでも自信に溢れたような顔を劉はしてた。劉のそんなところもやっぱり好きで。
「ううん。本当の劉が見れて、俺は嬉しいよ」
近くにいられた時間は少なすぎて、驚くことはきっとこれからもたくさんある。生まれた国の違いとか、それこそ生活環境なんかこの家を見れば違うのは一目瞭然だ。喧嘩も擦れ違いも、これからたくさんしてくんだろうなって思うけど、その分たくさん幸せな事もある訳で。
「もっと、俺は劉の事が知りたい。そんで喧嘩もいっぱいして、その分仲直りしよ?」
「そうだな。泣いて逃げようとしても、今度はしっかり捕まえておこう」
離さないって、そう言うように抱き寄せられる。だから俺も、離したくないって劉の躰を抱き締めた。
END
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