恋、しちゃいました。

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 あまり陽の射さない路地を抜け、コンビニへと辿り着いた俺は、紙パックのお茶とストロー、それと自分の飲み物、ついでに昼に食べようとパンを幾つか調達してアパートに引き返した。  部屋へと戻れば相変わらず劉は大人しく座っていて、俺は紙パックのお茶にストローを挿して劉の目の前に差し出した。いつから劉がここに居るのかは知らないけれど、両手を怪我してるのに湯呑をそのまま渡すあたり兄貴はきっと気が利かないんだろうと思う。  驚いたように少しだけ眉をあげた劉が俺を見る。 「テーブル低いから少し飲みにくいかもしれないけど」 「わざわざこれを買いに…?」 「それなら持ち上げなくても飲めるだろ?」 「ああ、ありがとう」 「どういたしまして」  世話をしろって兄貴に言われた時は何したらいいのか分かんなかったけど、不自由そうな事をフォローするくらいなら俺にも出来る。これならどうにか大丈夫かも…なんて俺の安易な予測は、だが数分後、劉が立ち上がった事ですぐに裏切られる事になった。  狭い台所へと出て行ったきり、なかなか戻ってくる気配のない劉に俺が訝しんだのは、五分ほど経ってからの事だ。なんとなく畳の上を這って覗き込めば、奥に下げられた色褪せた暖簾の先に光が漏れてた。  その場所がトイレである事は、さっきストローを探すついでに調べてある。  建付けの悪いドアは結構力を入れないと閉まらなくて、怪我をした両手で閉めるには確かに面倒かもしれないなんて、俺はそんな事を思いつつなんとなく声をかけた。 「劉…? 大丈夫?」  大丈夫かと聞いたところで返事のしように困るよな…と、気付いたところで吐き出した言葉は飲み込めず。変な事を聞いてしまったと謝る俺の耳に、劉の涼やかな声が届く。 「他人の世話をする事になど慣れていないだろうお前に頼むのは、些か酷かとな。不自由である事は確かだが、どうにかならない事もない」 「何かごめん…」  要らない事を言ったと俺が小さく謝れば、劉の揶揄うような声が聞こえてくる。 「兄に頼まれた仕事を全うしたいと言うのなら、止めはしないがな」 「う…っ、てか、劉こそそういう…なんつーか…世話焼かれ慣れてんの?」 「まあ、お前が思うほど羞恥心や罪悪感を感じない程度には」  劉の返事を聞けば、中国人だけどやっぱり兄貴と関係があるのかなー…なんて、思ってしまう訳で。  だってほら、よくヤクザの人って付き人みたいな人に背中流してもらったりしてるイメージが俺の中にはある。まあ、実際のところはどうなのかなんて知らないし、知ろうとも思わないけれど。  そんなこんなで時間は過ぎて。午後九時を回ったくらいに兄貴が帰ってきてその日の俺はお役御免となった。といっても、帰りにしっかり翌日の時間を告げられたのは言うまでもない。  家に帰りついた俺は、速攻でベッドに横になった。何もないクリーム色の天井を見上げてれば、何だか劉の顔が浮かんでくるような気がして変な気分になる。 「綺麗な人だったなぁ…」  ぽつりと零しても、一人暮らしの俺にはもちろん返事なんて返ってくるはずもなく。  ――あー…兄貴にストローの事言うの忘れてた…。  和室のテーブルの上に置いてきたから大丈夫だろうかなどと思いつつ、それでも何だか気になって俺は枕元に放り投げていたスマホを取り上げた。メール作成の画面を開き、そこでふと手を止める。  ――電話の方が早いかな…。気付かなかったら嫌だし。  そう思って、何が嫌なんだと思わずツッコミを入れる。けれど、答えなんてとうに決まってて、劉がまた痛そうな顔をしてお茶を飲んだりするのが嫌なんだって、俺自身はっきり自覚してた。  耳にあてた液晶からは、聞き慣れたコール音。プツリと僅かなノイズとともにつながった回線の向こうから、兄貴の平坦にも聞こえる静かな声が返事をした。 「俺、要だけど」 『何だ』 「劉さ、お茶飲むのに両手痛そうだったからストロー買っておいたんだけど、言うの忘れてて…」 『そうか』 「う、うん…」  返事をしたもののそれ以上話す事もなくて、気まずい沈黙が流れる。 「ぁああと兄貴、俺の仕事って…ホントに大丈夫…なの…? クビになったりしない?」 『大丈夫だ。若から直接、店のオーナーに話が行ってるからな』  ――若!! 「あ…そう? そ、それならいいんだけど…ははは…っ」  乾いた笑い声しか出なくて、俺は静かに項垂れる。  俺から掛けたはずの電話は、忙しいからと言った兄貴の方から切られた。いやまぁ…分かってはいた。分かってはいたんだ…。兄貴の…兄貴がヤクザだなんて事は。  だからといってそう何の躊躇もなく”若”なんて言われたら、やっぱり一般人の俺としては怖さ半分、近寄り難さ百パーセントなんだって…。  ――劉も…ヤクザなのかなぁ…やっぱ…。  そうでなければあんな怪我を負うなんて事、そうそうないのは分かってる。でも、近頃のヤクザというのは中国人も手下にしてしまうんだろうか。謎だった。  ――兄貴が世話してるって事は…そうなんだよな…きっと…たぶん…うん…。  正直、あんな綺麗な人がヤクザだなんて信じられない。顔は関係ないって言われたらそれはそうなんだけど、物静かで、穏やかで、優しそうで…。  そんな事を考えてたら、思わず顔がぽかぽかしてきて、俺は枕に顔面から突っ込んだ。  ――何考えてんだ俺…。  真っ暗な視界の中でも、浮かぶのはやっぱり劉の顔。艶サラな黒髪を触ってみたいなんて、馬鹿な考えが浮かんでしまって、ガバッと俺は顔を上げた。 「疲れてる! 疲れてるんだ俺!!」  自分に言い聞かせるように声をあげて、俺はベッドから降りた。  シャワーを浴びて、帰りに買ってきたコンビニのおにぎりをもそもそと食べた俺は、そのまま寝てしまう事にした。もちろん、寝付くまで目蓋の裏に浮かんだ劉の顔に、悶々とさせられたことは言うまでもない。   ◇   ◆   ◇  翌日。けたたましい音で鳴り響くスマホの着信音に、寝ぼけ眼のまま電話を取った俺は、次の瞬間、一瞬にして目が覚める。  回線の向こうから流れてきたのは、もちろん兄貴の声だった。うっかり目覚ましをかけ忘れて完全に寝過ごした。 「あぁあああ…ごめん兄貴っ。目覚まし忘れてた!」 『構わん。俺はもう出なきゃならないので確認しただけだ。起きたのならそれでいい』 「ごめんなさい…」  謝る俺に苦笑を漏らしながら切れたスマホの液晶には、約束の時間を五分ほど過ぎた時刻が映し出されてる。兄貴が出なければならないという事は、あのアパートには劉が一人という事だ。  食事をするのも両手を使ってやっとという劉を、長い時間一人にさせておくのは忍びなくて。朝ご飯は食べただろうかなどと思いながら、着替えだけを済ませて俺は家を飛び出した。  俺の住むマンションから兄貴のアパートまでは、原付バイクで十分かかるかかからないかといった距離だ。昨日は場所があるか分からなかったので徒歩で出たけれど、一応玄関の前にスクーターを一台停めるくらいのスペースはあった。  渋滞の多い都内では、案外スクーターは重宝する。それに、ちょうど出勤ラッシュとバイトの終わる時間が重なる事もしばしばで、電車に乗らなくて済むのはいいかとつい最近買ったばかりだった。  ともあれ予定通り十分くらいで兄貴のアパートへと辿り着いた俺は、原付にしっかりと鍵をかけてドアを開けた。 「寝坊してごめん…っ、何か困ったりしてない?」  言いながらギシギシと床板を軋ませて上がり込めば、昨日と同じようにテーブルのすぐ横に一人で座ってた劉の穏やかな声が返事をした。 「大丈夫だ。お前のおかげで不自由はしていない」 「そっか…それならよかった。飯は? もう食った?」 「それなら台所にお前の分も用意しておくと、設楽がそう言っていた」  劉の言葉に片手をついて台所を覗き込めば、確かに何やら置かれている。 「じゃあ劉もまだなんだ」 「ああ」 「それじゃ用意してくるね。すぐ食べれるよな?」  返事の代わりに劉が柔らかく微笑んで、俺は顔が熱くなるのを自覚した。すぐさま立ち上がり、逃げるように台所へと移動する俺は、劉には気付かれなかっただろうかとそればかりが心配だった。  兄貴が用意した朝食は白飯に味噌汁、それに目玉焼きという簡単なもので、用意といっても大した手間でないのが有り難い。正直な話、俺はあまり家事が得意じゃないから。  一応言い訳をさせてもらえるのなら、春先まで実家暮らしだった男が家事なんて得意なはずがない…。  味噌汁とご飯をよそい、フライパンに乗ったままの目玉焼きを少しだけ火にかけて皿へと移す。お盆とかトレーとか、そんなのが見当たらなくて何度か台所を忙しなく行き来するのが面倒だったけど、嫌になるほどじゃなかった。というよりそれが、俺が兄貴に頼まれてる事だから。 「いただきまーす」 「いただきます」  劉用にスプーンとフォークを用意したものの、やっぱり食べにくそうで見てるこっちが痛々しくなってくる。 「昨日も思ったけど…食べにくそうだよね…」 「そうだな」 「パンとかおにぎりとかの方が食べやすいのに、なんで兄貴普通の飯にしたんだ…」  思わず零れる不満。両手を怪我してる相手に、スプーンとかフォークとか、持たせる兄貴の気が知れない。そう思うとなんだかムカムカしてしまって、俺は目の前のご飯をガツガツと食べた。  さっさと食べて劉の手伝いをしようと、そう思ったから。 「隣行っていい?」 「うん? 構わないが」  俺は劉のすぐ横に陣取ると、両手で持っていたフォークを抜き取った。 「要…?」 「食べさせてあげる」  一瞬脳裏に、嫌がられるかなって心配が浮かばなかった訳じゃない。それでも、劉はちょっと困りながらも微笑んでくれて、やっぱり綺麗だなぁ…って、俺は思う。 「味噌汁飲みたかったら言って」 「手を煩わせてすまないな」 「ううん、大丈夫」  首を振る俺は、劉を気に入ってるって言ったらどんな反応されるだろうとか、そんな事ばかり考える。男同士だし、気持ち悪がられる可能性の方が高いけど…。
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