恋、しちゃいました。

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 取り敢えず冷蔵庫に買い置きしてあったコーラを出して飲んでいれば、劉が不意に立ち上がる。 「トイレ?」 「ああ」 「てっ、手伝う…?」  おどおどと口に出してみた俺の声は、まんまと震えてて情けなくなってくる。立ち止まった劉が、驚いたように見るのも仕方がない。  下心がないとは言わない。けれど、劉が不自由なのもこの一週間でよく分かってる。  だったらもう少し早く手伝うって言えばよかったんだけど、やっぱり恥ずかしくて言えずに今の今まで見ない振りを俺はしてきたのだ。 「無理はしなくていい。気持ちだけで充分だ」 「う…うん…。そっか…ごめん」  何だか俺の下心なんて劉にはとうにバレバレで、それで断られたんじゃないかなんて怖くなってくる。けれど、聞こえてきたのは揶揄うような劉の声だった。 「そんなに顔を真っ赤にするほど恥ずかしいんだろう?」 「んあっ? だっ、だって…、そんななんか…どうしたらいいのかも分かんないし初めてだし…っ。た、ただ…やっぱり不便だろうなって…思って…」  ――顔が赤いのバレてる…っ。  そう思えば恥ずかしくなって、思わず俯いた俺の頭を何かがさらりと触れていった。  ――え…?  驚きに顔を上げても既に劉は和室から出て行ったあとで確かめようもない。  ――頭…撫でられた…よな?  それは本当に微かに触れただけだったけれど。  何だかいてもたってもいられなくて、思わず立ち上がった俺はミシッと板の間を軋ませていた。 「どうした?」 「やっぱ手伝う」  台所のある床の間の奥に下がった暖簾を片手で払うと、僅かに隙間の開いたドアがあった。 「開けるよ?」 「ああ」  ドアを開ければキィ…と小さな軋みが上がる。狭い個室の中に劉の背中が見えた。  兄貴のアパートはトイレと風呂場だけはリフォームしてあって、玄関や台所ほど古くない。誰のセンスだか分からないけど、淡いピンク色の壁紙が建物とはミスマッチなトイレだ。 「下だけおろしたらいいの…?」 「ああ、それで構わない」  あっさりと言う劉だけど、ふと俺はその場で固まった。だってほら、男って支えたりするし…ね。一度考えだしたら止まらなくて、劉の両手は殆ど指先も出てないのを思えば支えた方が良いの? とか、そんな事まで考えてしまう。 「要…? 大丈夫か? 無理ならやっぱり…」 「いあっ! 無理っていうか…そうじゃなくて…あの…その…」  こんな場所で何をやってるのかと自分自身に呆れはするけど、気になってどうしようもないんだから仕方ない。どうせお世話をするならちゃんと最後までしたい。中途半端は宜しくない。と、妙なところで変な使命感を沸かせてしまった俺は、恐る恐る口を開いた。 「その…さ、さ…える…? 方がいい…?」  モゴモゴと口籠りながら言えば、劉が静かに振り返る。その時にはもう俺の心の中は後悔しかない訳で。  ――言うんじゃなかった!!  内心で絶叫してみても言ってしまったものは仕方がない。慌てて取り繕おうと口を開こうとした俺だったけど、その前に劉の声が聞こえてきた。 「要、出来る範囲で構わない。お前がそこまで無理をする必要はない」 「ぃいやあの、無理って言うかわかんないから…っ!? 俺たぶん劉なら平気だし…っ!」 「私なら?」  ――俺の馬鹿っ!!! 「あぁあああのっ、そっ、そうじゃなくてっ、なんか劉って兄貴みたいだしっ!! その変な意味じゃな…っ」  完全に墓穴を掘っている。そんな自覚はある。もう頭の中なんて真っ白で、俺は自分が何を口走ってるのかすらちゃんと把握できてない。っていうか、何を言えばいいのかも分からない。 「ごめ…ごめんっ、劉だって俺に触られるのとか嫌だよな…っ」 「要」 「ホントごめ…」 「要。分かったから、ちょっと落ち着け」  困ったような顔で劉に諭されて、俺は余計にいたたまれなくなる。出来もしない事をやるなんて、最初から言わなければ良かったと心の底から後悔してた。当然顔なんてあげられる筈もなくて。  ずっと俯いたままでいれば、劉の包帯の巻かれた手が俺の頬に触れた。 「お前はまだ若いし、慣れてもない事を無理矢理させるつもりはないんだ。お前に触れられるのが嫌な訳ではない」 「うん……」 「そうだな…、私がして欲しい事をきちんと言わないのがいけないな…」  やっぱり劉は俺なんかよりも全然大人で。 「下着を下ろしてくれないか。それと、終わった後に直してくれれば助かる。それ以外は大丈夫だ」  手というよりは腕を腰に回されて、俺は一旦個室の外へと劉に連れ出された。  劉が着てるのはごく普通のスウェットで、きっと兄貴が用意したものなんだろう。俺は言われた通り劉のズボンを引き摺り降ろして、またそこで手を止めてしまった。 「分かりやすいなお前は」 「ぅぐ…」  反論のしようもなくて言葉に詰まっていれば、静かに肩を叩かれる。 「大丈夫だ。厚手のものがなくなっただけでも充分助かっている」 「ホント…?」 「ああ。むしろ見苦しいさまを見せてしまって私の方が謝りたいくらいだよ」  言いながらあっさりと個室の中へと入って行ってしまう劉に、俺は慌ててドアを閉める。 「ざっ、座敷にいるから終わったら声かけてっ。そ、その…スウェットあげるし…っ」 「分かった」  落ち着いた声が聞こえて和室へと戻った俺は、畳の上に両手をついて項垂れた。  ――俺の馬鹿…っ。  下心がありつつも、いざとなると恥ずかしくて手が止まってしまう自分のヘタレ加減が恨めしい。挙句の果てに劉に慰められるなんて、情けないにも程があるというのだ。  ――絶対呆れられてる…。  というか、完全に変な奴だと思われてるような気がしてならない俺だ。いや、気がするどころか確実に思われてる自信がある。  それって好きとかそれ以前の問題じゃないかと思えば凹む以外にない訳で。もはや劉に想い人がいるとかそんなのを気にしてる場合じゃない。  意識すればするほど墓穴を掘るような気がしてどうしたものかと考え込んでいれば、劉の声が聞こえてくる。 「要、悪いんだが…」 「今行く」  今度こそ! と、妙な気合を入れて立ち上がった俺は、相変わらずミシミシと軋む床を踏みしめて暖簾をくぐった。 「手間をかけさせてすまない」 「ううん。俺の方こそ…さっきはごめんなさい…」 「気にするな。面倒を見てもらっているのは私の方だ」  そう言って微笑む劉はやっぱり綺麗で、俺は取り返しのつかないところまでのめり込んでる事を知る。  和室に戻っていつもの場所に腰を下ろすと、落ち着く気がするから現金なものだ。まあ、だからといってやらかした事が消えた訳じゃないんだけれど。  小さなテレビを点ければちょうどCMが流れていて、ハヤトさんが映ってた。 「あ…」 「うん?」 「ああ、ハヤトさん出てたから」 「ハヤト…。ジュエリーブランドのモデルか」  劉の言葉を聞けば、やっぱりハヤトさんは凄い人なんだなって思う。うちのホストクラブでも売り上げは常にナンバーワン。同伴もアフターもしないけれど、本職がモデルなのを思えばそれも当たり前かと思う。 「この人、うちの店のナンバーワンなんだよね」 「店って、この間言ってたバイト先の?」 「そそ。ホストクラブ」  そのCMはすぐに終わってしまったけれど、幾つか違うCMを挟んで今度は違う企業のCMにまたハヤトさんの姿が映った。ホント、こうしてみてるとハヤトさんって、見ない日はないってくらい売れてるモデルだ。  ハヤトさんがうちの店で働いてるのは副業というよりは趣味らしいけど、それでも同じ場所で仕事してるって思うだけでちょっと自慢できるし、実際俺がバイトを始めてから大学でも羨ましがられるくらいだった。 「凄くない? 毎日見ない日はないってくらい人気のトップモデルと仕事してるって、大学でもよく羨ましがられるんだよね俺」  俺のささやかな自慢の一つ。 「あっ、でも別に俺ハヤトさんが目当てで今のバイトしてる訳じゃないからね!?」 「須藤(すどう)甲斐(かい)…」 「え?」  突然オーナーの名前を呟いた劉に、俺は思わず躰を強張らせた。だって、須藤さんがうちの店のオーナーだって事は、店長と内勤者くらいしか知らないはずだ。それとも劉は、個人的に須藤さんを知ってるのだろうかと思いかけて、俺は重大な事実をすっかり忘れている事に気付いた。  ハヤトさんの所属してるモデル事務所のオーナーも、須藤さんなのだ。しかもそれって、須藤さんの本業の方。そりゃあ劉が知っててもおかしくない。だって、須藤さんが会長をしてるSDIグループって、はっきり言って日本で知らない人はいないんじゃないかってくらいの大企業だ。  そう思えばなんだか気分が楽になった俺だったけど、劉の顔を見て思わず開きかけた口を閉じた。  ――え…? 何…?  今までに見た事がないくらい、真面目な顔をした劉がそこには居た。真面目っていうか、なんだか怖い。じっと両手を見つめる劉を俺は黙ってみてる事しか出来なかった。  ――あ…、違う。なんか…寂しそう…? いや、苦しそう…。  実際劉が何を思ってるのかは分からないけれど、その横顔は怒ってるとかじゃないのだけは分かる。寂しいとか、苦しいとか、痛いとか、そんな感じの顔だ。  けど俺にはどうして劉がそんな顔をするのかが分からなかった。須藤さんと、劉の両手の怪我は何か関係してるんだろうか。  じっと両手に視線を落とす劉は辛そうで、俺は考えるよりも先に躰が動いてた。 「要?」 「ごめん。でも…なんか辛そうで見てられなかったから…」  驚いたような声を劉があげたのは、仕方がない事だと思う。誰だって急に抱き締められたら驚きもする。でも俺は、それが良いとか悪いとか考える前に動いてて。いつもだったら慌てて手を放すんだろうけど、今は離したくなかった。 「俺、劉の事何も知らないけど、辛そうなのは…分かるから…」 「そうか」  静かな劉の声。いつものように優しいものじゃなくて、揶揄うでも、怒っているのでも、呆れてるのでもない。感情の籠らないその声が、すごく寂しそうに聞こえてしまってどうしようもなかった。  俺が肩を抱いてても嫌がる感じでもなくて、しばらくそうしてれば今度は少しだけ揶揄うような声が聞こえてきた。 「教えろとは、言わないのか?」 「うーん…。聞いても俺にはどうする事も出来ないから。知りたくないとかそういうのじゃなくて…、話したかったら、劉は話してくれるでしょ? 聞くだけ聞いてって人は、自分から話すと思うしさ」 「なるほど」 「嫌な事思い出すなんて、誰でもあるし」 「それで、お前は私を慰めてくれたという訳か」 「うん…」  慰めになってるのかどうかは甚だ疑問だけど、そう返事をすれば劉が小さく笑ってくれた。  結局、その後すぐに『大丈夫だ』と、『すまなかった』とそう言って腕を離すように言われてしまって、俺は手を離した訳だけど。当然もう少しくらい抱きしめていたかったというのが本音だったりする。  弱みに付け込むなんて…と、そんな事を思うほど真面目な訳じゃない。まあ、離せって言われてそのままいられるほどの度胸はもちろんないけれど。  ヘタレだ…。と、そう凹んでいた俺は、だがその後『ありがとう』とそう言って劉に微笑まれただけでどうでも良くなってしまった。
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