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一日っていうのはこういう時ほど早く過ぎるもので、あっという間に最後の講義が終わってしまった俺は、どうしたものかと時計を見る。今日は兄貴が一日中いるって言ってたし、きっと呼び出される事はないだろう。と、そう思った瞬間に電話が鳴って、嫌な予感に俺は眉を顰めた。案の定液晶には兄貴の名前が浮かんでて、電話を取るのを躊躇う。
けれどもやっぱり無視する事も出来ない俺は、恐る恐る通話ボタンをスライドさせた。
「はい…」
『要か。今、少しいいか』
「え…? うん…大丈夫…」
てっきり仕事で出掛けるからと呼び出されるものだと思っていれば、なんだか様子が違くて。兄貴の声は、いつもよりも固い気がした。
『お前、昨日劉と何かあったのか』
「ぇあ!? あ…うん…ちょっと…」
呼び出しどころか核心ど真ん中を突かれて変な声を出してしまった俺は、誤魔化す事も出来ずに口籠る。呼び出しを何と言って断ろうかと、そればかり考えてた俺は、言い訳なんて考えてもいなかった。
「何か…あったの…?」
『世話はもういいと、出て行った』
「え?」
『やっぱり何も聞いてないんだな』
「うん…」
はぁ…と、小さな溜息が聞こえてきて俺は小さく肩を震わせる。人ひとりの世話も出来ないのかと、呆れられてしまったのだろうかと、そんな事を考えていれば、またしても兄貴の口から流れ出る言葉は俺の予想もつかない事で。
『お前劉の事が好きなんだろう? 今でもそれは、変わらないのか?』
「へあ…っ!?」
『別に隠さなくていい。男同士くらいで驚きはしないからな』
「あの…うん…そうなんだけど…その…、昨日…ちょっと揉めちゃって…考えてたというか…、…考えてた」
再び小さな溜息が聞こえて、俺はその場に穴を掘って埋まりたい気分になる。そんなに呆れなくたっていいんじゃなかろうかと、そう思う。俺だって一応、真面目に考えてるんだ。
『まどろっこしいな。時間があるならちょっと付き合え』
「大丈夫…だけど…」
大学に迎えに行くと、そう言って電話は切れた。
俺の家と大学は目と鼻の先で、通学は徒歩だ。原付は家の駐輪場にあるから何の問題もないと、そう思っていられたのは束の間だった。
再び掛かってきた電話で指定されたコンビニの駐車場で、思わず俺は立ち尽くす。
明らかに、その筋の人が乗るような国産高級車。しかも窓真っ黒。これが立ち止まらずにいられるかと言うのだ。
「マジか…」
既に気分はどこかに拉致られる一般ピープルな訳で。
ちょうどタイミング良くコンビニの自動ドアから出てきた兄貴に首を倒されて渋々歩き出す。
――これ…大学の知り合いに見られたら通報されるんじゃ…。
そんな俺の心配をよそに、助手席の窓がするすると降りて中から『早く乗れ』と兄貴に急かされる。
「お、お邪魔します…」
恐る恐る助手席のドアを開ければ、なんか普通の車よりもドアが重い気がしてならない。その意味を理解して、俺はゾッとした。
「何をそんなに怖がってるんだお前は…」
「ぃいやだって! こんな高級車乗った事ないし…っ」
ドアを開けてしまえばあとは勢いのまま乗り込んで、必死にドアを閉めた俺に兄貴は呆れてるようだった。
――いやでもうん…怖いって普通…。兄貴じゃなかったら確実に近寄らないよねコレ…。いや兄貴でもあんまり近寄りたくないけど…。
俺は平凡な人生を歩みたいタイプで…なんて思いながらも慌ててシートベルトを締めたのは、何も言わずに兄貴が車をバックさせたからだった。失礼かもしれないけれど、車の割に兄貴の運転は丁寧で、締めたばかりのシートベルトを全力で握っていた俺は少しだけ力を抜いた。
「ど、どこ行くの…?」
「別にどこにも行かない」
「え?」
どこにも行かないのなら、何故車を出したのだろうと疑問に思っていれば、兄貴が小さく笑った。
「いつまでもこんな車が停まってたら、迷惑だろう?」
「ぁ……」
兄貴が言わんとしてる事は、俺にも分かった。分かったけれど、何だか意外だ。正直、そんな事まで考えてるとは思わなかった。
「それよりも劉だがな」
「……うん…」
「お前、連絡先か何か聞いてないか」
「聞いてない…」
「そうか」
どことなく兄貴の声も劉の事を心配してるみたいで、何だか俺は息苦しくなる。
きっと劉が兄貴のところを出て行ったのは俺のせいだ。
「兄貴は…? 連絡先知らないの?」
「知らん」
「じゃあ、どこ行ったか全然分かんないんだ…」
どうしようって、そればかりが頭に浮かんでは、どうしようもないのだと打ちのめされる。やっぱりちゃんと、昨日の夜に話をしておけばよかったなんて、後悔したところで時間は戻らないんだ。
辛くて、悲しくて、切なくて、寂しくて、どんどん気持ちが沈んでく。
「会いたいか?」
「うん…。ちゃんと、話してなかったから…」
「何があった」
何だかもう吹っ切れてしまって、俺は兄貴に全部話した。劉が好きだって事も、昨日の夜の事も。もちろん、好きだけど悩んでる事も。本当に洗いざらい全部ぶちまけて、何に悩んでるのかも話してみたら、兄貴はやっぱり小さく笑った。
「何か…ごめん…」
言い終わってみればやっぱり恥ずかしくて。しかも劉の事があるまで俺は兄貴と話なんて殆どした事がなくて、それなのに突然色々暴露してしまった事が申し訳なくなってくる。
いくら兄貴が男同士でも引かないって言ったって、もう出て行った相手の事でウジウジ言われてもどうしようもないだろうと、そう思う。だけど。
「本気なら、仕方がないんじゃないか? まして国が違えば考え方が違うのは当たり前だろう。それもひっくるめてお前が考えてるなら、話も出来るだろうよ」
「でも…兄貴にも居場所わかんないんだよね…」
「すぐには割れんだろうが、そのうち見つけてやる。それまでもう少し悩んでいればいい」
「うん…。ありがと…」
◇ ◆ ◇
兄貴のアパートから劉が出て行ったと聞かされた日から、一カ月近くの時間が経っていた。あれから、俺と兄貴はたまに連絡を取り合うようになっている。といっても、そんなに頻繁なものではなくて、兄貴が俺を色々気にかけてくれるようになったって感じだけれど。この間なんて、ついにプレゼントまでくれたんだ。きっかけはあまり良い事じゃないけど、何だか本当に兄弟みたいでちょっと嬉しかったりする。
劉の足取りは、まったくと言っていいくらい掴めていないらしい。
兄貴は『悩むにしては長すぎだな』って、そう言って笑うけど、正直まだ、俺の中で答えが出た訳じゃなかった。けど、取り敢えず話をしたい。会って、ちゃんと気持ちを伝えたい。悩んでた事も、何もかも。
大学は長期休暇に入り、バイト三昧の日々を送りつつも俺はその日、間宮に誘われて買い物に出掛けていた。CDショップを覗いて、服を見て。昼ご飯を牛丼屋で食べながら映画かカラオケかとこの後の話で盛り上がる。
結局、観たい映画がないと、そういう話になってカラオケに行った俺と間宮は、数時間ストレス発散をして外へ出た。
「あー、久し振りに歌ったわー」
「俺も。最近仕事忙しくて」
「久々の休みやって言ってたもんな」
就活に苦しんでた間宮はようやく内定を貰えたらしく、このところ上機嫌で、俺も一緒になって喜んでいた。晩ご飯はどうしようかなんて話しつつ街中を歩いていた俺だったけど、不意に視界の端になびく黒髪に目を惹かれて立ち止まる。
「どしたん?」
「ごめんっ。ちょっと探してた人見つけたかも!!」
「は? え?」
「埋め合わせは今度する!!」
言いながら、俺はすでに走り出してた。長い黒髪なんてそのへん見回せば幾らでもいるけれど、その人が着てたのはメンズのスーツだった。男で、腰まである黒髪なんて、そうそう居ないはずだ。
人で溢れかえる歩道を急いでその人がいた場所まで走ったけれど、残念ながら見失ってしまう。それでも、近くにいる筈だと思えばどうしても諦められなくて、俺は辺りをきょろきょろと見回しながら歩き回った。
――確か…こっちの方向向いてた気がするんだけど…。
その人が劉だったかどうかなんて確信はない。夕方で辺りも暗くなってきてたし、ほんの一瞬だけ見えたのは、なびく黒髪と、その人が男物のスーツを着てた事だけ。でも、どうしても気になったんだから仕方がない。人違いだったなら、それもそれで仕方がない。ただ、何もしないままでいるのだけは嫌だった。
一本路地を入れば表通りの華やかさが嘘のように思えるほど人通りが少なくなる。そんな場所で、通り過ぎた路地に気を惹かれて戻ってみれば、長い黒髪が奥の角を曲がるところだった。間違いなく男物のスーツだ。
劉かもしれないと、そう思った瞬間、俺は全力で走り出してた。ここまで来て見失うなんて、絶対に嫌だ。
人違いならそれでいいと、そう思いながら目指していた角を曲がれば、少し先にその人は立っていた。
――誰かと…話してる?
ここまで来ておきながら、まだ後ろ姿しか見えなくてその人が劉だと確信が持てないでいた俺だったけど、それは二人が動いたことで確信に変わった。
――劉だ!!
でも、正直喜んでる場合じゃない。だって、劉の腕を、もう一人の男が掴んでる。しかも劉よりも背が高いその人は金髪で、明らかに日本人じゃなかった。でも、どうしてもそのままにしておく事も出来なくて。
「劉…っ」
思い切って名前を呼んでみれば、劉が振り返る。その顔は険しかったけれど、間違いなく劉だった。もう一人の男は、金色の髪に碧い目をした外国人。しかも兄貴と同じくらい背が高くてガタイがいい。
「劉の…知り合いなの? 嫌がってるように見えるけど…」
「要。今すぐここから離れるんだ」
「嫌だ! せっかく劉に会えたのに!!」
離れろと言われても、また劉がいなくなるのが分かってるのに、離れられる筈もない。縋りつくように劉の背中に張り付けば、俺には意味の理解できない言葉が聞こえてきた。多分発音からして中国語。それを喋ってるのは、劉じゃなくて金髪の男だった。
『随分可愛らしい子だね、劉。キミの恋人かな?』
『違う。この子は私とは何の関係もない』
『関係も何もないのにそんなにキミに懐いてるはずがないだろう? 僕は、嘘は好きじゃない』
何を話してるのかは分からないけれど、金髪の男はさっきから楽しそうに笑ってて、劉はなんだか怒ってるような感じだった。俺が口を挟んでいいのかどうかも分からない。
『私はどうでもいい。けどこの子は返してやってくれないか。私たちとこの子は違う。本当にただの一般人だ』
『ただの一般人…ね。キミは本気で、僕が何も知らないとでも思ってるのかい?』
不意に金髪の男が、劉の腕を掴んだまま後ろにいる俺を覗き込んでくる。その顔は笑顔だったけど、何だか俺には恐ろしく見えた。
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