恋、しちゃいました。

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 兄貴は顔を顰めたけど、俺にはもうどうでもよかった。どうせ兄貴は居場所を教えてくれる気もないだろうし、手を貸してくれるつもりもないって、そう分かったから。 「もういいよ…。自分で何とかする…」  そう言って起き上がろうとすれば、今度は兄貴も止めなかった。何だか躰が重い気がしたけど、寝起きだからだろうと思う事にした。自分で何とかするって言ったって、俺には何をすればいいのかも分からなかったけど、とにかく兄貴の顔を見てたくなくて。  いつの間にか連れ込まれてた建物を出たら、そこは雑居ビルだった。雀荘とか、小さなスナックとかの看板がビルの壁にズラッと並んでる。それを見上げて、目に留まった派手な看板だけを記憶した。  ――どうしよ…。警察は…でも確かに誘拐って言っても劉の名前だけじゃ動いてくれないよな…。てか俺、他人だし…。現行犯じゃなきゃきっと無理だ。  色々考えながらフラフラと歩いてれば、そこが新宿だって事は分かった。新宿には、兄貴のいる組もある。兄貴の言う事を聞いてるみたいで腹は立つけど、取り敢えず警察に電話するのは最終手段にしておこうと思った。  アテもなく歩いてれば、人間不思議なもので慣れた場所へといつの間にか足を向けている。そう、俺の足は勝手に職場に向かってた。  間宮と別れて劉を追いかけたのは夜の早い時間。それから今の時間を見れば、そう長く意識を失ってた訳じゃない。今日はバイトが休みだから職場に向かう必要はないんだけれど、何となく知ってる風景を見てる方が落ち着く。  相変わらず人が多い街を歩いていれば、目の前に一台の車が停車したところだった。そこは、間違いようもなく俺の職場のビルの前。その車から降りったのは、ハヤトさんだった。  何かを考えるよりも前に、俺は口を開いてた。 「ハヤトさん…っ!」  名前を呼んで駆けよれば、優雅な所作で振り返ったハヤトさんの表情が柔らかく笑みを象る。 「設楽さん、ですね? これからお仕事でしょうか?」 「あっ、いえ…今日は休みなんですけど…」  何故だか照れくさくなって俯き加減で言う俺の言葉尻に、被せるように聞こえたその声は、間違いなくオーナーだった。須藤甲斐。二十歳という若さでその人が国内最大級の企業グループのトップに立った時、俺はまだ十一歳だったけれど、その日は一日中マスコミが騒いでいたのを覚えてる。そしてハヤトさんも、その時にデビューしたんだ。 「隼人。先に行っている」 「かしこまりました。すぐに参ります」  丁寧に頭を下げるハヤトさんの後ろから、俺は無意識に須藤さんの名前を呼んでいた。  今だってハヤトさんをはじめ、他にも有名なモデルや歌手、アイドルなんかを輩出してる芸能事務所の社長よりもさらに上。まさに雲の上の人の名前。きっと趣味でやってるホストクラブで働いてるだけの俺の事なんか覚えてないだろうけど、それでも、この時の俺は必死だった。 「あの…っ、須藤さん!」  ハヤトさんの目が、驚いたように僅かに見開かれるのが分かる。それはそうだろう、幾ら同じ職場にいるからって、須藤さんは俺なんかが気安く声を掛けられる相手じゃないんだから。  それでも、怪訝な面持ちながらも振り返ってくれた須藤さんに、俺は聞きたい事があったんだ。 「すみません。あの、劉…劉国峰という名前の男を、ご存知ないですか?」  僅かに首を傾げ、視線を落として考え込むそぶりをみせる須藤さんの言葉を、俺は祈るような気持ちで待った。  ――頼む。敵でも味方でもなんでもいいから、せめて関係のある人であって!  たった一度だけ、劉が呟いたのは須藤さんの名前だ。もちろん一方的に知ってるだけって可能性の方が高いけど、何せ本人が目の前にいるのだ。けれど…。 「すまないが、俺に心当たりはない」 「そう…ですか…」  やっぱり返ってきたのは俺の期待した言葉じゃなくて。どんよりと気分が沈み込んだ。でも、その後、須藤さんは何だか楽しそうに口許を歪めてこう言ったんだ。 「が、同じ穴の狢ならば、一人知っている」 「え?」  がっくりと項垂れた顔を、俺はバッと勢いよく上げた。”同じ穴の狢”っていうのが何を指すのかは分からなかったけれど、勢い余って須藤さんの肩を掴もうとした俺は、あっさりハヤトさんの腕に止められる。  俺と須藤さんの間に立ちはだかったハヤトさんの表情は見た事もないほど冷たくて、たじろいだ俺は僅かにさがった。  ――そう言えばハヤトさんって、須藤さんの恋人なんだっけ…。  この店の店長がこっそり俺に教えてくれた。内勤者はみんな知ってるみたいで、須藤さんが店に来た時はキャスト…いわゆるホストの人たちが入れない場所にもハヤトさんだけは入ってくる。 「ご、ごめんなさい…」 「不用意に甲斐に近付かないでください」 「はい…」  怒られてしゅんと項垂れる俺の目の前で、須藤さんがくるりと踵を返す。慌てて声をかけようとしたけれど、その前に須藤さんの声が俺の耳に流れ込んだ。 「ちょうどいい。隼人、その男を連れてこい」 「よろしいのですか?」 「二度言わせるな」  そう言って店の中へと入って行ってしまう須藤さんに、ハヤトさんは小さな溜息を吐いて俺を見た。なんだかそれだけで居心地が悪くなってしまうのは、俺自身がハヤトさんや須藤さんとは釣り合いもしない一般人だからだろう。  ――でも何で…須藤さんは俺を連れてこいってハヤトさんに言ったんだろう…。  取り敢えずついていけば分かるかとそう思い直した俺は、困ったような顔をしながらも『こちらへどうぞ』と、丁寧なハヤトさんに促されて店の中へと入った。  いつも働いている自分の職場。てっきり内勤室へと連れていかれるものだとばかり思ってた俺は、ハヤトさんの立ったドアを見て目を見開いた。そこは、VIPルームと呼ばれる部屋だ。  この店には、あらゆる場所がカメラで監視されている。だからもちろん、俺がハヤトさんに連れられて店に入った事も、店長は知ってる筈だ。そして現在、滅多に足を踏み入れる事のないこの部屋に俺が入ったという事も。  ――大丈夫かな…、俺、クビになったりしないよね?  店のオーナーとはいえそれを知るのは店長とハヤトさん、俺を含めた数人の内勤スタッフだけ。勝手な私情でそんな人に声をかけて、迷惑をかけたとなればクビにされても文句は言えないだろう。  でも、それよりも今は、少しでも劉に繋がる情報が欲しかった。  部屋の中に入ってみれば、先に歩いて行ってしまった須藤さんの他に、もう一人。  ――あの人…。  兄貴が”若”って呼んでた人。辰巳さんがそこには居た。  ハヤトさんの後ろに連れられて部屋に入った俺の姿に、辰巳さんは器用に片方の眉を上げてみせる。 「甲斐よ。お前が拾った面白れぇのってのは、そこの設楽弟の事かよ?」 「捨てられた犬のような目をして随分必死だったんでな。お前なら、名前くらいは知ってるんじゃないかと思って」 「名前? 誰だよ」 「劉国峰」  俺が須藤さんに言ったのとは違う。けれど、劉自身が最初に名乗った発音と同じ言葉で名前を告げた須藤さんに、辰巳さんは一瞬にして真顔になった。 「甲斐、悪ぃがお前、席外せ。それと隼人もだ。カメラも全部切れ」 「驚いたな。日本にいたのか?」 「それ以上はナシだ。首突っ込んだところで碌な事になんねぇからな。大人しく言う事聞けよ」 「それじゃ肯定してるのと同じだろう。相変わらず、お前は単純すぎる」 「うるせぇな、放っとけ」  目の前で繰り広げられる会話が分からないほど、俺は馬鹿じゃなかったらしい。それに、須藤さんにダメ元で声をかけたのは、どうやら無駄じゃなかったみたいだ。  席を立った須藤さんは、すれ違う時に少しだけ俺の前に立ち止まって言った。 「物好きだな。知ってると思うが、あの男と劉は、国は違えど同じようなものだ。気を付けろよ」  ――え? どういう…事…。  国は違えどと、そう言った須藤さんの言葉が、頭の中をぐるぐると回りだしたけれど、当の須藤さんはハヤトさんを連れてさっさと部屋を出て行ってしまった。  ――中国の…ヤクザって事…? え、待って…。  須藤さんが俺に嘘を吐く必要はない。って事は、きっとそれは事実な訳で…。  ふらふらとよろめきそうになってれば、いつの間にか辰巳さんが隣に立ってて俺は慌てた。兄貴ほどじゃないけど、この人も大きいから、正直近くにいると怖い。  ――そういえば、あの金髪の人も大きかったな…。劉も、俺より全然大きいし…。  やっぱりそういう、何というか危ない職業っていうのは、躰が大きくないと出来ないんだろうかとか、そんな事を考えてしまう。 「あっ、あの…っ」 「設楽弟。お前、名前は?」 「え…あの、要です。設楽要…」 「ミコトにカナメか。なんか似てんな」  可笑しそうに笑う辰巳さんが、俺にはよく分からなかった。だって、確かに漢字一文字で同じだけど、ミコトとカナメが似てるとは思えない。母音すら違うのに…。と、そんな事を思ってれば、もの凄く近くから顔を覗き込まれて俺は飛び上がるほど驚いた。 「はぅあ!?」 「なるほど。犬だな」  そう言って、何が面白いのか喉を鳴らすみたいにして笑う辰巳さんが、俺は増々分からなくなる訳で。信じられないと言って自分から離れたはずの兄貴に早くも助けを求めたくなったことは言うまでもない。  と、そこまで考えた時だった。確か、フレデリックと名乗った男は、兄貴のボスも知ってるって言ってた。しかも仲が良いって、そう言ったんだ。 「ぁ、あのっ!!」 「はぁん?」 「ふっ、フレデリックって…金髪の人…ご存じないですかっ!? 劉がっ、その人に誘拐されて!!」 「ああ?」  ――俺の馬鹿っ!! 仲良いっていうのに誘拐とか絶対俺よりそっち信用するに決まってんじゃん!!  辰巳さんの低い声にそう、思ったところで後の祭りで。 「ぃいいゃあのっ、ですね…っ、一緒に…っ! 劉とっ、そのフレデリックって人が…一緒にいて…っ」  慌てて取り繕う俺は、完全に涙目だった。だって本当にこの人の威圧感半端じゃない。兄貴よりも大きい気がするんだ。そんな辰巳さんに舌打ちをされて、俺は飛び上がるほど肩を震わせてた。 「ごっ、ごめんなさいッ! でも…でも劉に会いたいんです…っ、会って俺…話しなきゃいけなくてっ」 「話ってな…。お前、あれが何だか分かって言ってんのか?」 「あ…れ…?」 「劉だよ劉。ったくめんどくせぇなお前、兄貴呼んでやっからちっと大人しく座っとけタコ」  ビシッと、額を指で弾かれて、俺はその場にへなへなと座り込んだ。もの凄く痛いけど文句を言えるはずなんてなくて、ジンジンと痺れるようなおでこをそろそろと擦ったら、余計に痛くて涙が出てくる。  情けないって分かってるけど、それよりも今は、須藤さんの言葉と、辰巳さんが言った意味をちゃんと考えなきゃいけない。 『あの男と劉は、国は違えど同じようなものだ。気を付けろよ』 『お前、あれが何だか分かって言ってんのか?』  俺は、もの凄い思い違いをしてたんじゃなかろうか。確かに劉は、兄貴と同じようなものかもって思ったりはしてたけど、もっと違う…、そう、須藤さんの口振りからしたらそれは日本のヤクザじゃなくて…。
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