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恋、しちゃいました。
日曜のその日。枕元に置いたスマートフォンが騒々しく鳴り響き、俺こと設楽要はシングルベッドの上でゴソゴソと寝返りを打った。起きる時間にはまだ早いという事だけは、僅かに開いたカーテンの隙間から見える景色が薄暗い事から確認できる。
ぼんやりと寝ぼけたまま碌に確認もせず通話ボタンを押した俺は、最初、声を聞いても相手が誰だか分からなかった。
「もしもし…」
『要か』
「………誰…」
『尊だ』
「あ? ……ああ? え? 兄貴…?」
『ああ』
相手の言葉を聞いた瞬間ガバッと起き上がり、ベッドの上に思わず正座してしまったのは、何というかまあ、驚きのあまり…ではなく兄の尊が怖いせいだ。
「おぉお、おはようございます!」
『おはよう。突然で悪いんだが、お前に頼みたい事がある』
「え…?」
兄貴と言っても俺たち兄弟に血の繋がりはない。兄貴は父親の再婚相手の連れ子で、年齢は二十一の俺よりも全然上の三十八だし、今年の春から一人暮らしを始めた俺とは違って、兄貴は以前から自立しているために家にはほとんど帰ってこない。
というより、兄貴が実家に帰って来るのなんて、正月くらいしかない。それも、俺が高校に通うようになる前までの話だ。
だから俺は兄貴の性格なんて全く知らないに等しく、兄貴の職業が所謂頭にヤの付くその筋の人だという事も、つい二カ月前、偶然知ったばかりだった。しかも、バイト先で。
ともあれ、場所は後でメールするという兄貴に大人しく返事をした俺は、回線の切れた電話を見つめてひとり項垂れた。
まだ朝も早い時間だというのにすっかり目が覚めてしまって、とりあえずシャワーを浴びる事にする。
そう広くはないワンルーム。数歩あるけば狭い廊下がある。右手のキッチンと向かい合った壁にある引き戸を開け、風呂とトイレのドアが向かい合った脱衣所へと入った。
就活真っ最中の仲間内でも、有名企業かどうかなんて拘りがない俺は最速で内定を貰った。ついでに、大学を卒業するまではアルバイトとして雇ってくれるというので、それまでやってたコンビニのバイトを辞めたのがかれこれ三カ月くらい前。
そんな俺の現在の就職先兼バイト先は、何を隠そうホストクラブだ。といっても、俺は別にホストじゃなくて、ただの裏方。いわるゆボーイと言われる仕事。
ホストクラブなんて言うと、なんとなくブラックなイメージが付きまとう仕事だけど、俺のバイト先はまったくそんな事はない。まあ、働く時間は深夜帯がメインだけれど。
だからといって決められた時間以外に残業なんて殆どないし、休みだってちゃんと貰える上に給料も結構良い。下手をしたら大手の飲食チェーンなんかより待遇が良いくらいじゃなかろうか。
そして忘れもしない二カ月前。今のバイト先に移ってちょうど一カ月くらい経った頃、俺は偶然兄貴に会ったのだ。店のオーナーと、その知り合いのヤクザの親分さんとともに、兄貴は一緒に居たのである。しかも兄貴は親分さんの付き人みたいだった。
――頼み事って何だろ…。
兄貴の事は嫌いじゃない…というより、嫌えるほど性格も知らないし、接点がないのだけども…。出来れば俺は平穏無事に人生を生きていきたいタイプな訳で。兄貴には悪いけれど、なるべくだったらヤクザなどとは関わりたくない。
――って、はっきり言えれば苦労はねぇよな…。
兄貴がヤクザだったという事を知っても、これまで通りの付き合いならば何の問題もないと思ってた。俺の職場と兄貴の組は確かに関係があるけれど、俺と兄貴個人の繋がりは皆無に等しかったから。
現にこの二カ月は、何の連絡も話もしてないし、顔を合わせてもいなかった。……なのに。
◇ ◇ ◇
スマホの地図アプリを片手に辿り着いた二階建ての小さなアパート。綺麗に整備された表通りからは想像も出来ないほど細い路地を入ったところに、その建物はあった。
「ボロ…ッ!!」
思わず口に出してアプリを閉じると、兄貴からのメールを再び開く。
『みのり荘』
今にも崩れ落ちそうなほど錆びた階段の手摺に括りつけられた木の板には、うっすらとアパートの名前が書いてある。メールに書かれたアパートの名前と同じだった。
――ヤクザって、こんなとこにしか住めないくらい儲からないの…?
一階の一番奥の部屋だと書かれたメールの通りに、狭く薄暗い通路を通りドアの前に立てば、ドアには辛うじて読み取れる薄さの部屋番号が漢数字で書かれてた。
――十って何だよ!!
一ならまだしも、何故に十なのか…。思わず来た道を後ろ足に戻り、隣の部屋のドアを見れば、そこには十一って書いてあった。
なんともレトロ…と言えば聞こえはいいけど、築何十年だか分らないほど古いこんなボロアパートに、未だに人が住んでる事が俺には信じられない。だってこの家、インターホンはおろか、呼び鈴すらないんだ…。
再び兄貴の部屋と思われるドアの前に立ち、恐る恐るドアをノックする。そう待つこともなく開いたドアから、ぬっと顔を出した兄貴に俺は思わず後退った。
ドアのサイズなんてどのアパートも大差ないと思うけど、百九十を超える兄貴が顔を出すと小さく見える。
「要か。急に悪かったな」
「いや、うん。大丈夫…だけど…頼みって何…?」
「中で話す。入れ」
出てきた時同様、ゆっくりと頭を下げて部屋の中へと戻った兄貴の後について玄関へと入った。
「お邪魔しまーす…」
外見に負けず劣らず部屋の中も古臭いけれど、掃除が行き届いているのか床や壁は思ったよりも綺麗な気がする。それに、玄関の横にある台所も。
靴を脱いで床の間に立てば、それだけでミシッと床板が音をたてた。予想はしてたものの、予想外に大きなその音に思わずびびる。
「兄貴…。こっ、これ…床抜けない…?」
「大丈夫だろ」
「そ…そう…?」
そろりそろりと足を踏み出すたびにミシミシと床板が軋む。それだけならまだしも、微妙に床板が沈むものだから心臓に悪い。奥の部屋へと入ってしまった兄貴が歩いてた時はひとつも音なんてしなかったのに、何で俺が歩くとこうなるのか不思議でならないのだが…。
台所のある床の間の奥は、和室だった。どうやら部屋はその二つだけらしく、六畳ほどの和室には小さなテーブルがちょこんと置かれてた。
その横に、兄貴の他にもう一人。長い黒髪の頗る綺麗な人が座ってて、思わず目が釘付けになる。こんなボロい部屋には似つかわしくないほど、その人は美人だった。
「あの…?」
「まあ座れ」
兄貴の声にペコリと頭を下げながら正座すれば、その人の顔が僅かに微笑んだ。…気がした。
「こいつの両手が治るまで、俺が居ない間の世話を頼みたい」
「両手?」
言いながら身を乗り出すまでもなく視線を下げれば、その人の両手には包帯がこれでもかと巻き付けられていて。
――何それ何でそんな怪我してるの怖い!
辛うじて中指と薬指、それに人差し指の先だけが包帯から覗いているその人の両手。いったいどんな怪我をすればそんな事になるんですかと、聞きたいけれども怖くて聞けない。
そんなことを思っていれば、ふと部屋の中が影が差したように暗くなる。兄貴が立ち上がったのだ。
「お前の職場には俺の方から話を通す。悪いが頼んだぞ」
「はい……、ってえぇええええっ!?」
それだけ言い残してさっさと玄関のドアを開けてる兄貴に縋るように手を伸ばす。が、無情にもバタンと音をたててドアは閉まった。
「世話って…何したらいいの…」
そもそも名前くらいは紹介していってくれてもいいんじゃなかろうか兄貴…。と、俺は本気で泣きそうになる。
けれど俺は、背後から聞こえてきた声に、ガクリと畳の上に両手をついて項垂れていた頭をはっと上げた。
「私のせいで迷惑をかけてすまないな」
「あぁああ、あのっ、いやっ、そんな事は…っ」
「気を遣う必要はない」
どことなく違和感の残る発音に、相手が日本人ではない事に気付く。
「あの、名前…教えてもらっていいですか? 俺は設楽要っていいます」
「劉国峰」
「りゅ…りゅう…こう…んあ?」
「日本語の発音だとリュウ・コクホウになるな。劉でいい」
中国語の発音などまったく出来ない俺に、劉と名乗った男は小さく笑いながらそう言った。その笑顔がもの凄く優しくて、思わず顔が熱くなる。
同じ男だっていうのは分かってるけれど、劉は綺麗というか…そう、美人だ。中国風に言うなら麗人とでも言うのかもしれないけど。
切れ長の涼し気な目に少しだけ赤い唇。陶器みたいに白い肌に、黒く艶やかな長い髪がとてもよく似合ってる。立てばそれなりに身長はありそうだけれど、男としては華奢なんじゃないだろうか。
「劉さんは…その、兄貴とはどういう関係? まさかとは思うけど、その怪我…兄貴がやったんじゃないよね…」
「この怪我は、私の過ちの代償だ。お前の兄に負わされたものではないから安心しろ。むしろお前の兄は、善意で私の面倒を見てくれている」
「そっか…ならよかった…」
劉の答えに、俺は思わずほっとした。
それでも、劉の怪我は兄貴と無関係ではないと、そう思う。だって、そうじゃなければ兄貴が劉の面倒を見る筈がない。
――でも、世話しろって…ホント、いったい何すればいいんだろ…。
他人の世話をするなんて経験のない俺が考え込んでいると、劉がテーブルの上の湯呑を両手で挟んで持ち上げるのが見てとれた。包帯でグルグル巻きにしていてもやはり痛むのか、その顔が僅かに険しい。しかも、手首まで固定されててもの凄く飲みにくそうで…。
「それ、めっちゃ飲みにくくない…?」
「まあ」
「だよね…」
そう言って俺は立ち上がると、ミシミシと軋む床にびくつきながらも台所の戸棚を漁る。が、残念ながら目当てのものはどうやらこの家にはなさそうだった。ふと、ここに来るときに入ってきた路地を出たところにコンビニがあったのを思い出す。
「ちょっと買い物に行ってくるから待っててくれる? すぐ戻ってくるから」
「ああ、気を付けて行ってこい」
劉の言葉は何だか兄貴みたいで、なんとなくこそばゆいというか、気恥ずかしい。実際、兄貴ともあまり話したこともないし、話をしたらこんな感じなんだろうかと思う。
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