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「わたしが一緒なの、奥さんにばれたらまた喧嘩になるんじゃないの」
「大丈夫だよ。そのために遠くの温泉に決めたんだから。帰りは途中で降ろすよ。ばらばらで帰れば誰もわからないって」
「だといいけど。
で、本当にわたしが決めちゃっていいの?」
スマホで宿の検索をしていた歩美は運転席の淳平に顔を向けた。
もうすぐ夜が明ける時間帯だがまだまだ空は暗かった。夜通し運転を続けている淳平の目に隈ができているのがナビの照らす光でもはっきりとわかる。
「うん、いいよ。どこかいい宿空いてるかな? 予約できたらいいね?」
「平日だからわりと空いてるみたい。当日予約でも十分いけるわ」
歩美はネットで予約を終えると、あくびをした。
「眠ってもいいよ。俺に付き合わなくったって」
「いいの。淳さんが運転してくれてるのにわたしだけ眠れない」
「優しいな歩美ちゃんは。うちの嫁なんてさ、後部座席でいびきかいて寝てるよ。着くまでまったく起きないんだから」
「結婚すればわたしだってきっとそうなるよ」
そう言ったのは勘違いされないためだったが、「俺は歩美ちゃんが嫁なら許せる」と淳平は目尻を下げた。
淳平のことは嫌いなタイプではなかったが妻帯者だ。この男との幸福を求めるならばいろいろと困難が生じるだろう。それを乗り越えてまでも一緒になりたいとは思わなかった。
でも――
歩美は窓ガラスに映る街路灯に浮かんだ自分の顔を眺めながら心の中でため息をついた。
カップルが別々の部屋を頼むなんておかしいだろうと、さっき二人部屋を一つ予約した。自分の意志で決めたことだが他意はない。
だが淳平は何と思うだろう。
同室にしたのだから肉体関係を了承したと思うに決まっている。いや、ついてきた時点でそう思われているかもしれない。
勢いで来ちゃったけど、やっぱ来なきゃよかった。
歩美は淳平に悟られないよう深く静かに息を吐いた。
休憩に立ち寄った道の駅は平日の朝にもかかわらず結構賑わっていた。
歩美はトイレを済ませると花壇の前にあるベンチに座り淳平を待つ。
売店の中では子育てを終えた年代に見える女性のグループが笑い声をあげ楽しそうに談笑していた。
五人いる中の一人が真っ赤なワンピースを着てマスクをつけている。店内のことなので外からははっきり見えないが、他の女性たちとは異質な感じがした。
仕方なく付き合ってるママ友ってとこかな。
マスクの女は談笑に加わらず、じっと外に顔を向けていた。こっちを見ている気もしたが、視線がどこを向いているのかそこまでは見えない。
「お待たせ。焼き立てメロンパン売ってたから買ってきたよ。あと缶コーヒーでよかったかな」
淳平が戻ってきて白いビニール袋を掲げた。
「ありがとう。おいしそう」
手渡された袋からパンを取り出し、遠慮がちに離れて座る淳平に渡す。プルトップを開けて缶コーヒーも渡すと、「気配り上手だな」と淳平は感心した。
「そんなことないよ。連れてきてもらってるんだからこれぐらいしなくちゃ」
メロンパンを頬張りながら淳平は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
気があるようなことを匂わしたつもりはないが何を言ってもそう聞こえてしまうような気がして、歩美はそれ以上何も言わず視線を逸らせコーヒーを飲んだ。
マスクの女がまだこっちを見ている。
他人にどう思われようと気にする理由はないのだが、男女が離れて座っていることに違和感があるのかもしれないと、不自然さを消すため歩美は淳平のほうに尻をずらして近づいた。
それを横目で見る淳平の頬が再び緩むのに気付き、自分で泥沼に足を突っ込んでいるんだと情けなくなった。もうこうなった以上は仕方ないと歩美は覚悟を決める。
「さ、行こうか。ゴミ捨ててくるから先に車に戻ってて」
「わかった」
袋と空き缶を持ってゴミ箱に向かう淳平の後姿を見送って、会社のロゴが入ったバンに向かっていると女性グループも駐車場にやってくるのが見えた。
詮索するような目付きでこっちを見ているような気がするが、やましい気持ちがそう見せるのだと歩美は自意識過剰を笑った。その証拠に彼女たちはきゃあきゃあと声を上げ、次は誰が運転するのか自車の横でじゃんけんをし始める。
だが、マスクの女だけはじっとこちらを見つめていた。被さった前髪が影になり相変わらず視線の先はわからない。だが確実に自分を見ていると歩美は感じた。
むかつくなあ。わたしたちがどんな関係でもあんたには関係ないでしょうに。
頭にきて女を睨み返す。
女性たちが次々と乗り込み車が動き出した。軽快な走りで駐車場を出て行く。
だが空いたスペースにマスク女だけ取り残されていた。
「え、なんで――」
わけが分からず呆然とする歩美のもとに、「ごめん、ごめん」と淳平が駆け足で戻ってきた。
「ね、なんかおかしいのよ。あの人、みんなに置いてかれたみたい――」
指さすとつられるように淳平が首を向けた。
女が勢いよくマスクを引き剥がす。耳のあたりまで裂けた口がぱかっと開き、血にまみれた歯列と真っ赤な舌が見えた。
二人が悲鳴を上げると女がこっちに向かって走ってきた。
逃げようとする淳平に手をつかまれ、歩美も一緒に走り出す。
「生きてたんだ――生きてたんだ――」
うわ言のように呟く淳平に、「どういうことっ、ねっ、あれ何っ」と歩美は追いかけてくる女を振り返った。
徐々に距離を詰めてくる女の開いたままの口から血とよだれが糸を引いていた。見開いた目は歩美を捉えて離さない。
背筋が怖気立ち足元がもつれ歩美は転んでしまった。そこに女が追いついた。
淳平は固まったように動かない。
女が近づき、「わたしのかお、きれい?」と不明瞭な声で訊いてくる。
わけが分からず首を横に振ることしかできない歩美の上に女が馬乗りになった。
「おまえもきれいにしてやるっ」
そう言うなり歩美の口に両手の親指を突っ込み、頬を左右に引き裂いた。
喉の奥から搾り出てくる自分の絶叫が耳をつんざく。
激痛に意識が遠のく中、震えながら地面に頽れる淳平が見えた。
*
歩美の悲鳴に集まった野次馬が通報したのか、しばらくしてパトカーと救急車が到着した。
血にまみれた歩美のそばに警官が駆け付けた時、彼女の上に倒れ込んでいたのは死斑の浮いたさつきの遺体だった。
さつき殺害の罪と歩美への嫌がらせの罪で淳平は逮捕された。
歩美に岡惚れしそれが原因で妻を殺害したものの、その歩美に拒否された。腹いせに遺体を使って嫌がらせをしたが行き過ぎて傷害事件にまで発展した。警察はそう見なした。
淳平は否認した。
もちろん殺人は自供したがその後に起きたことは自分がやったことではない。だがいくら見た事実を説明しても誰も信じてくれなかった。
歩美は何度も形成手術を受け、顔を元に戻そうとした。だが縫合しても傷はすぐ化膿し、どんな抗生物質を処方してもそれを防ぐことはできず頬が閉じることはなかった。
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