リトル・ルーシカ

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 結婚式が挙げられる前日の晩、リトル・ルーシカは密かにこのチャペルボートへお越しになりました。彼女は船首に取り付けられた銀の十字架の前に立ち、しばらく暗い海を見つめていたのです。そして、ふと口を開かれました。 「私は、本当にハートマン氏の伴侶になれるのだろうか?」  うまく信じることができないんだ、と彼女は仰いました。  リトル・ルーシカは昼下がりの本屋街に長い間身を寄せていた乙女でございました。おおよそ彼女の外見が六歳頃のときに(と、彼女は形容しました)彼女の意識は突如としてこの世界に浮上したのでございます。彼女には家族の記憶というものが一切なく、本を抱えた人々の雑踏のなかに幼い姿で放り出されておりました。いつでも太陽が真上にある街の中で、ひとりぼっちで佇んでいた彼女は、タータンチェックのハンチング帽に同じ柄の半ズボン、仕立てのいい白いブラウスを着て、金のボタンが付いたベストを着ておりました。まるでキツネ狩りにでも出かける、少年のような格好をして、彼女は取り残されていたのでございます。  最初、リトル・ルーシカは「自分は迷子で、この街のどこかに自分の両親がいるのではないか」と思っておりました。本屋街の中心にある広場のベンチに座り、三重にした紙袋いっぱいに文庫本を提げた男性や、大きな書物を両腕で赤ん坊を抱くように持ち運んでいる女性の顔をしばらく彼女は眺めましたが、何もわかることはございませんでした。昼はいつまでも続き、人の群は絶えず入れ替わりましたが、幼いリトル・ルーシカを呼ぶ人も、その手を取ってくれる人もとうとう現れなかったのでございます。  広場を後にしたリトル・ルーシカは、本屋街を巡り始めました。出店のように日に焼けるのもかまわずに店先へ本を並べているような書店もあれば、すべての本が自分のコレクションである、という風に、店そのものが身構えているような書店もございました。 『あるバレエ・ダンサーの生涯』『迷子と月とマザーグース』『かくれんぼの時代』――様々な本の背表紙が彼女の視界に入り、好奇心をくすぐりました。
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