リトル・ルーシカ

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「俺はココロについて研究しているんだ」  栗毛の青年――ハートマン氏は言いました。螺子巻書店の主人は丸眼鏡のブリッジを、指で押し上げて尋ねます。 「心理学、ということかい?」 「いいや、違うね。ココロの理には興味がない。だいたい、理にかなっているココロなんてあるもんか、というのが俺の論だよ」 「それは検証した上での論なんだろうね」 「そうさ。人のココロが理でできてるって言うならこの世界はこんな混沌で満ちているはずないじゃないか」  この世界の有り様こそが俺の論の証明だ、とハートマン氏は言い放ちました。 「世界は混沌としているんですか?」  リトル・ルーシカは急いで倉庫から探し出してきた新品のマグカップを使って、ハートマン氏にコーヒーを淹れながらふと思いついたように訊きました。ハートマン氏は少しぎょっとしたように、けれども取り繕ったように答えます。 「そりゃあ、君。我々のココロは実に複雑に物事を考えているだろう? 複雑なココロを抱えたものたちが何十億といるこの世界が、混沌としていないわけがないじゃないか」 「そうでしょうか。私のココロはちっとも複雑じゃないですよ」  彼女は首を傾げました。螺子巻書店の主人はただおもしろそうにリトル・ルーシカとハートマン氏を見つめます。 「私が考えていることといったら、お風呂場の蛇口が緩くなっているから直さなきゃとか、明日はどの本を読もうかとか、それくらいのものです」  リトル・ルーシカの小さな口から明瞭に語られた言葉は、ハートマン氏をたいそう面食らわせたようでございます。 「言ってくれるじゃないか」 「いえ、私は先生の研究が報われればと思っただけなのです」 「なんだって?」 「理は、道筋です。道のない迷宮は攻略不可能だと思います。ですが、なんらかの形で道が見いだせるのであれば、いずれ出口へ向かうことができるのではないでしょうか」  彼女の淡々とした言葉に、ハートマン氏はどう言い返せばいいのかわからずに、口を何度かもぞもぞと動かした上で螺子巻書店の主人にこう言いました。 「……ミスター、変わった娘さんをお持ちだね」  書店の主人は低く笑いながら口髭をそっといじりました。
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