Ⅰ ジャコ

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 出かけるのはおればかりでなく、人間の二人も同様だった。 「おい、リッカ、レコーディング間に合わねえぞ」  玄関のシゲが大声を上げる。 「うっせえな、分かってるよ」 「先出てるからな」  がたん、とドアが閉まって、邪魔者がいなくなった! と喜んだのもつかの間、肝心のリッカも「じゃあジャコ、留守番頼んだぞ」と言い残して出て行ってしまった。尻尾がぴたんとうなだれた。  リッカとシゲは音楽をやっていた。おれはリッカの歌が大好きだが、シゲのことは嫌いだった。リッカを家から連れ出すからだ。 「スタジオで音合わせ」だの「レーベルと打ち合わせ」だの、そんなところに出かけるくらいなら、家で昼寝しながら鼻歌をうたっていて欲しかった。おれのそんなささやかな希望は、週に一度も叶えられたら多いほうだ。  しかし理由は、シゲばかりではない。リッカが連れ込む女のこともあった。 「ジャコ、どけ」  部屋の真ん中で丸まっていると、外出から帰ってきたリッカに必ず命令される。そんな傲慢な言葉でさえも、リッカが口にするなら愛おしい。  とはいえそんな素振りは見せない。おれは動かず、ちらりと視線をやるだけだ。そしてリッカが一人だと喜び、その後ろに甘ったるい女がついてくると、ため息をつきたくなるのだった。 「わあ猫ちゃん! カワイー!」 「そうか?」  キンキンした声に芳香剤みたいなにおい。リッカの気配が打ち消される。存在のすべてが邪魔だ。 「猫飼ってるなんて意外ね」 「飼ってねえよ、居候だよ。おい、ジャコ、邪魔だから出てけよ」  そうだ、おれは飼われてなどいない。自分の意志でここにいるのだ。  出ていけと言われるがおれは行かない。部屋の隅でじっと二人の行為を見つめている。甲高くけたたましい声はリッカにむしゃぶりつかれて、しだいにねっとりと性をまとっていく。  リッカから垂れ落ちるしずく。リッカの目は夜行性の狩人のようにぎらぎらと野生に満ちている。 「は、は」 「リッカ……! きて」 「外、出すぞ」 「あ、あんっ――」  リッカのあの身体が欲しい。おれはリッカの、あの目が欲しい。……永遠に報われないのは百も承知だった。おれは猫で、リッカは人間で、おれはとうに去勢済みで本能すら失われ、リッカは己のままに生きていた。  歌い、叫び、交尾し、日々を生きていた。
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