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「家、ほんとにわかんねえんだな、名前も」
「うん」
「どこにも行くとこねえんだな」
こくりと頷く。
最初はすぐにでも「じゃあな」と立ち去ってしまいそうだった彼が、おれを家まで連れ帰ることにしてくれた。絶対この手を離してはいけない、といまだぼんやりしたままの頭で決意した。
あいかわらず嫌な雨は降り続いていたし、薄皮一枚しかまとっていない足の裏はひりひりと痛んだけれど、彼について歩く時間に不安はなかった。むしろ、うきうきしていた。
目にうつるもの全てが、初めて目にするようでおもしろかった。色んな素材でできた家々や堀。形も彩色も表情豊かな看板たち。ぴかぴか光る信号機。
きょろきょろしていると、時たま彼が振り返ってくれる。そしておれが追いつくまで待っていてくれる。追いかけっこをしているようで、それもまた楽しかった。そうこうしているうちに、古ぼけて色のあせたアパートにたどり着いた。
「待ってろ」
彼は一人で玄関を上がると、すっと姿を消してしまった。行き先が気になるが、待てと言われたので、黙って待つ。
ひんやりとした静かな気配がただよう家の中。玄関のにおいは彼のにおい。あと、知らないはずなのに他人のような感じはしない、誰かのにおい。
脇の靴箱の上には、チラシや封筒がばらばらと散らばっていた。小銭も、レシートみたいなゴミも転がっている。部屋の床には、本の山や、何に使うのかわからない箱が置いてある。視界はうるさいくらいのはずなのに、でもやっぱり静かだった。
急に寒気を感じて、おれはクシュンとくしゃみをした。
「これ使え。しっかり拭けよ」
ぽうんと白いバスタオルが飛んできた。慌てるより先に、反射で手がつかんでいる。何をしろと言われたのかわからなかった。
「どうした?」
「どうしたらいい?」
彼は困ったような、苛立ったような顔をして、おれに近づいた。
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