Ⅲ ジャコ

5/53
前へ
/145ページ
次へ
 風呂の前から追い出されたおれは、彼のにおいをたどって、物がたくさん置いてある部屋へと向かった。ほどなくして小さなタオルで髪を拭き上げながらやってきた彼は、呆れたような声で言った。 「お前の部屋はあっちだろ」 「風呂とトイレと仕事以外ならどこにいてもいいって」  反論すると怒り顔が近づいた。 「家主の言うことはちゃんと聞けよ、追い出されたくなかったら」  一段階低くなった声が、鼓膜をぶるぶるとふるわせた。呼応するように、胸が高鳴る。  頭に添えられた手のひらは冷たい。なのに熱い、顔が熱い。真っ黒な瞳に捕らえられ、目がそらせない。 「……ジャコ」  呼ばれた響きは、高ぶる心にすっと沁みこんだ。何か大事なことを忘れたままの心細さに、まっすぐ一本道が通ったようだった。 「うん」 「さっそく返事してんじゃねえよ」  彼が初めて笑った。  困ったり、怒ったり、呆れたりばかりしていた彼の笑い顔。ほんの一瞬だったが見とれ、おれの顔もほころんだ。 「オレはリッカ。菅原立夏っていうんだ」  ――リッカ。  再び鼓動が速くなり、その名前が全身を駆け巡った。  リッカ、リッカ。欠けていたピースがぴたりとはまる。ずっと探していたんだ。もう、離れない。
/145ページ

最初のコメントを投稿しよう!

42人が本棚に入れています
本棚に追加