第1章

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 さて、少し行った辺りで船はエンジンを止めた。いよいよドルフィン・スィムの開始である。ところが、僕はまだこのスポーツのことを熟知してはいなかった。浅瀬でシュノーケルをするのとは大違いなのである。まず外海には波がある。その日は凪いでいたものの、五十センチぐらいのうねりがあった。救命胴着を身に着けていても、五秒に一回ほどは鼻の上まで海水が来る。その上、シュノーケルは多少の水が入り込むのが常だから、陸上のように息をしようと考える方が、そもそも間違っているのである。それを忘れていた僕は、溺れそうになったというのは大(おお)袈(げ)裟(さ)だが、船が難破して荒海に投げ出された人間の恐怖を、多少なりとも味合わされたのだった。  それにはこつがある。何度か繰り返すうちに、ようやく要領がつかめてきた。まず恐れや不安は捨て去ること。シュノーケルを着けたら、リラックスをして水中をイメージしてみよう。そして船縁から静かに海中へ。頭を上に出しているより、とにかく、水中眼鏡で下を見るようにすること。ゆっくりと二度息を吸い、長く深く吐いていく。少し疲れたら手足の動きを止め、しばらく海面を漂っていればいい。リラックスしながら緊張する、と言ったら矛盾するかもしれないが、緊張を解きながらも油断を怠(おこた)らないことだ。その時から人間であることをやめ、別の生物に生まれ変わる気持ちになって。  ようやく僕はイルカの写真を撮ることができた。ドルフィン・スィムではイルカに恐怖心を与えないように、基本的に手の使用は禁じられている。足のフィンだけを使って泳ぎ、手を差し出さないようにして、カメラも顎(あご)の下に引きつけたままで。数頭で群れを作る彼らは、水面に顔を見せた時の愛らしさとは、全くの別面を水中では見せる。筋肉の塊として流線型の魚雷のごとく、恐ろしいスピードで人間の追跡を軽く振り切ってしまう。
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