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覚悟を決めて水中に身を投じた。とにかくリラックスして、呼吸をゆっくりして。小笠原のサンゴは、ほとんどが灰色がかった板状のサンゴだ。その間には小魚に交じって、よく見かける黒いウニのほか、毒々しい真っ赤な針を立てているウニもいる。体長二十センチぐらいのずんぐりしたナマコも。
最後に泳いだのは嫁島のマグロ穴だった。船縁から海に次々と下りた僕らは、五十メートル先の切り立った崖がくぼんだ辺りまで泳いでいった。そこには素晴らしい世界が広がっていた。
水深は十メートル以上あったと思う。海底のすり鉢状の岩がえぐられたみたいに同心円を描いていた。沖縄の座(ざ)間(ま)味(み)の海で発見された物に似ている。ちなみにそちらは海底遺跡ではないか、と騒がれているのだが。
ここには確かにマグロがいた。小振りで体長数十センチのイソマグロである。それから立派な尾頭付きになりそうな鯛も数匹いた。僕が最も感動したのは、緑色の巨大な海亀の出現だった。そこに向かって泳ぎの巧みな青年が、人間とは思えぬしなやかさで潜っていき、そっと海亀に手を差し延べたのである。そのしぐさには深い愛が込められていた。
リュック・ベッソンの映画『グラン・ブルー』のラストシーンを、覚えておいでの方はいらっしゃるだろうか。深海への素潜りに挑戦して命を落とした友が、死に際(ぎわ)に洩(も)らした言葉を確かめるために、主人公は同じ潜水病に冒された身でありながら、真夜中の海の底へと潜っていく。深い海の世界には愛があるという確信に応えるように、死を迎えつつある主人公の前にイルカが姿を見せる。それは幻に過ぎないのかもしれないが……。その感動のシーンと現実に目にした光景がオーバーラップしてしまったのである。気が付くと青年と海亀の姿は失せていた。
次の瞬間、目の前は銀色の躍るうろこでいっぱいになっていた。数百数千のイワシの群れに取り囲まれた僕は、どこを見回してもうろこが放つ銀色の光に目がくらんでしまった。魚たちはまるで僕なんか存在しないかのように、勝手にそして自由気ままに泳ぎ回っている。そこには瞑想の世界が広がっていた。この体験は僕の生の中では一瞬に過ぎないかもしれないが、魂の中に深く刻み込まれるだろう。
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