第1章

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 夜中は甲板に出ることが禁止されている。暗い広がりに波しぶきを眺め、単調な揺れに身を任せていると、吸い込まれそうなめまいに襲われるからだ。船体の客室で横になると、ほの明るい床に雑(ざ)魚(こ)寝(ね)なので、島流しにされた罪人の気持ちになる。エンジンの震動と音がすさまじく、地響きで大地震が来る夢や、大風で建物が吹き飛ばされる夢を見た。両脇の鉄板にかかるしぶきの音を聞いて、大雨が降っているのではないかと思った。  小笠原のジャングル  朝食を終えて甲板に出ると、日射しがやけにまぶしい。八時過ぎ、聟(むこ)島(じま)列島が見えてきた。最も大きいのが聟島で、次いで針の岩が迫ってくる。石(せつ)剣(けん)が幾振(いくふり)も海から突き出した形である。その脇を通過すると、中央に媒(なこうど)島(じま)、水平線に嫁島が見えてくる。  父島に到着したのは、予定より三十分早い十一時頃。二見港は波の穏やかな入り江である。沖縄のような古い文化はないが、光線の強さは南国そのもので、港の白壁は亜熱帯の光を反射する。  とりあえず、空腹を満たすことにした。小笠原の名物といえば、島寿司である。これは八丈島でも見られるが、サワラを醤油と酒、味(み)醂(りん)に漬けたものに、洋がらしをつけて握ってある。淡泊な魚には意外と合う。地味な味だけれども、いくら食べても飽きが来ない。  小笠原村観光協会に足を運び、ジャングルフィールドのツアーに予約を入れる。一時半まで時間があるので、大村海岸を歩いていると、人なつっこいお婆さんに声をかけられ、小笠原ビジターセンターを訪れることにした。その間、いろいろなことを聞かせてもらった。  太平洋戦争中も、島は戦中らしい様子もなく、白米に刺身を食べていた。ところが、昭和十九年に初めて空襲があり、やがて成年男子を除く全島民に引揚げの命令が下った。お婆さんの身内は、マリアナ諸島から戻る途中で、アメリカ軍の攻撃で船もろとも沈められた。  お婆さんが小さかった頃は、オカヤドカリを捕まえて、これを子供の遊び相手として売ることで、小遣い稼(かせ)ぎをしていたそうだ。今のように、店で働いて金をもらうことはなかったので。その頃は本土まで船で三日、明治時代には八日もかかったという。一日余りの船旅で疲れ果てた僕には、途方もない長さの時間である。
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