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シャランとドアベルが音を奏でて、マホガニーの扉が開かれた。
「いらっしゃいませ」
今宵の客人は、妙齢の女性客だ。扉から半身ほど姿を見せ、こちらの様子をうかがっている。グレーのコートの中には黒のタートルニット、柔らかな素材で揺れるスカートも濃い灰色の出で立ちで、少し幼い顔立ちの彼女をやけに大人びて見せていた。
「……すみません。こちらのお店は『Jewel』で間違いありませんか?」
「えぇ、ようこそいらっしゃいました。どちらでこの店の事をお知りになりましたか?」
「……はい、知人に教えてもらって」
ここBAR『Jewel』は、ホームページはもちろん、飲食店検索サイトで調べてもヒットしない、住所も電話番号も非公開の店である。入口には看板さえ出ていないが、噂が噂を呼び夜毎客が訪れる。彼等にはみな、とある目的があった。
「あの……」
そう、きっと彼女も。
「『哀しみ』を買っていただけるって本当ですか?」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の瞳に宿る真剣な熱に、私のコレクター魂に火が点いた。はてさて、彼女はどんな『哀しみの記憶』を胸に秘めているのだろうか。
「お掛けください。何かお作りしましょう」
いやいや、焦ってはいけない。私の本職はバーテンダーである。まずは一杯。詳しい話はそれからだ。
彼女が脅える事のないよう、努めて穏やかなトーンで話す。
「いえ、とにかくこの店に来れば辛い思い出も消してくれるとだけ聞いて……」
オーダーしたスプモーニのタンブラーを弄りながら、彼女は不安そうな表情を見せた。無理もない。何か怪しいドラッグや催眠術でも使われるのじゃないかと、最初は誰もが疑ってかかってくる。
「どうぞ固くならずに肩の力を抜いてください。その方が純粋な貴女の『思い』が形になりますから」
「形に?」
「はい」
彼女の視線を、店内に促した。
「既に貴女は、実物をご覧になっていらっしゃいますよ」
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