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難攻不落の城ほど、落としがいがあると言うものだ。泣けない、と言う彼女から涙を引き出すのも、私の手腕の見せ所である。
まずは、カウンターの端に置いてあるフランス製のアンティーク・メトロノームの針を揺らす。秒を刻むよりも、ほんの少しだけ遅くなるように。カチコチと、機械的ではあるが木製のボディに響く音は温かく、聴く者の心を落ち着かせるだろう。
「まずは、彼と出逢った日の事を思い浮かべて下さい」
ビリー・ホリディとメトロノームの二重奏が、タイムマシンの働きをするはずだ。それに併せて、語りかける声のトーンも緩やかに落としていく。
「そこから、二人の築いてきた思い出を、ゆっくりと辿っていって下さい」
感情を揺さぶる声音の特性に関しては、私なりに研究を重ねてきた自負がある。絶妙な音を体内で反響させ囁く私の声は、さながら極上の楽器から奏でられるメロディーだ。
「その時々の、音、匂い、風、肌に触れた感触、貴女の記憶の中から全てを、イメージするのです」
彼女の唇が薄く開く。感情が昂っているサインだ。熱を帯びてきた右の掌を、閉じられた彼女のまぶたの上にかざす。美しい曲線を描いた睫毛と、主張しすぎる事なく引かれた濃茶のアイラインが、彼女の性格を表している。
まぶたが小さく震え始めた。
「さあ、その思い出を」
もう少しだ。
「解き放つのです。貴女自身の意思で」
彼女の目頭で、透明な雫が小さく光った。その雫の持つ熱に驚いたのか、彼女は大きく一度瞬きをした。
今だ。
手首を返し、指先で彼女の瞳から溢れ出た涙を掬いとる。指の先から掌に流し込んだ貴重なそれを、転がしながらそっと息を吹き掛けると、ひと粒の雫となった涙はまるで生き物のように膨張していき、ゆらゆらと私の手の中で形を変えていく。
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