0人が本棚に入れています
本棚に追加
「目を開けてくださって、大丈夫ですよ」
手の動きは止めずに、私は彼女に声を掛けた。
「……終わったのですか?」
「ええ、後は仕上げに入るだけです」
テーブル手品よろしく、彼女によく見えるように手元にバカラを引き寄せ、まだ流動性を充分に保っている涙の雫を薄いリムから滑り入れる。
「……これが、私の記憶?」
彼女は半信半疑の様子だ。
「ええ、貴女の記憶はまだ脳内に残っている状態ですよね。それでいいのです。これから時間を掛けて、この結晶が貴女から手放したい記憶を吸い取っていきます。早い人では一日。どんなに大量の思い出でも、三日もあれば移せるでしょう」
「では私はその記憶を、徐々に忘れていってしまう、という事ですか?」
「はい」
ステムを持ち、ワイングラスをリズミカルに回していく。ブルゴーニュ型特有の広いボウル・カップの中で、雫は次第にジェル状になっていく。
「別れ難くなってしまわれましたか?」
「え?」
グラスの中身が、まるで失われた自身の身体の一部でもあるかのように、切なげに見つめていた彼女に思わず問いた。その問いには、『彼との別れ』そして『彼との思い出との別れ』の二つの意味合いが含まれていたが、前者に関しては私が関与できる事ではない。
「当店では、三日以内なら返品可能となっておりますよ。もちろん、手数料はそれなりに頂きますが」
「返品って……。記憶を元に戻せるんですか?」
「ええ、石化した記憶は、削って粉にして飲んでいただければ思い出は元通りになります。どうされますか? 今ならまだ飲み易い形状ですよ?」
「……いえ、大丈夫です」
きゅっと結ばれた口元に、彼女の意志が見て取れた。
最初のコメントを投稿しよう!