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「10時くらいには帰って来れると思いますから。じゃあ、あとお願いしますね」
辺りはそろそろ薄暗くなり始めた、金曜日の夕刻過ぎ。そう言い残して、仲睦まじい恋人同士のように寄り添いながら、柿崎夫妻は家を出て行った。美也子はその背中を見送りながら、理想の夫婦というのはこういうのを言うんだろうなあと、しみじみ思っていた。
ご主人の圭介さんは商社勤めで、帰りが夜遅くなることもしばしば。奥さんの良美さんは、家事をする傍らイラストレーターの仕事もしていて、いわばちょっと変形の共働きとでも表現すればいいだろうか。そんな二人が、なかなか一緒に夕食を取る事も出来ないような毎日の中、それでもなんとかスケジュールの都合をつけて、こうして月に何度か「夜のデート」に出かけるのだ。小学校四年生の一人息子・透を、ベビーシッターである美也子に預けて。
現在大学の三年生で、まだ就職も決まっていない美也子だったが、将来結婚するとしたら、こんな結婚生活を送りたいなと考えていた。子供が出来ても、日々の仕事が忙しくても。出来る限り二人きりの時間を作って、二人だけで一緒に出かける。なんかいいな、こういうの。今は恋人もいない美也子にしたら、それはあまりに「夢」に近い、漠然とした願望だったけれど。
「じゃ、透くん、宿題片付けちゃおうか?」
美也子の問いかけに、透は黙って、ただこくりと頷いた。別に、何か不機嫌な態度だというわけではない。これがいつもの透なのだ。最初に会った時はさすがにちょっと面食らったが、慣れてしまえば単に内気な子供なんだと納得することが出来た。それに、美也子の言う事に逆らうようなこともない。両親が家を留守にしているからといって、それまで大人しくしていたのに、急に我が侭放題になったりダンマリを決め込むというわけではないのだ。それは、この家で初めてベビーシッターのバイトを始めた美也子にとって、何よりもありがたかった。
元々美也子もそれほど社交性のあるタイプではなく、アルバイトもしたいけどどうしようかなあ、知らない人の中で上手くやっていけるかなあ……などと悩んでいた時に、すでにベビーシッターをしていた友人の満里奈が「良かったら美也子もやってみる?」と誘ってくれたのだった。
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