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【番外編】LIFT
「私、こんな高いビルに昇るのは、初めてです」
彼女はこころもち、うわずった声でそう言った。
「訪問する企業があるのは、三十九階です。良ければ後で展望台に行ってみますか?」
俺は、唇の両端を意識して上げた。
エレベーターが到着し、ドアが左右に開いた。
彼女は、先に中に入り、すっ、と操作パネルの前に立って、『39』と書かれたボタンを押す。
俺は彼女の後ろに少し離れて立って、視線を下ろした。
足首が美しい、と思う。細い鎖のアンクレットが似合いそうだ。
もっとも、イヤリングさえ、彼女は身につけないが。
すっきりと髪をアップにしたうなじは、白く可憐で、それでいて凛として見える。
初めて会った時の印象は、地味でやぼったさの残る未熟な田舎娘。
今では、どこに出しても恥ずかしくない上等な女だ。
「そのスーツを選んで正解でしたね。よく似合う」
お世辞ではなく、そう言った。選んだのは俺だ。
「ありがとうございます。選んでいただいて良かった。私も気に入っています」
そう。彼女は俺に金を出させなかった。頑として。
そういう、生意気なところも、そそる。
ビジネスマナーを、教え込んだのも俺だ。基礎はあった。修得は速かった。頭の回転もいい。
俺は改めて、後ろ姿の彼女に問いかける。
「どうですか、彼との生活は」
彼女は、俺の美術大学時代の後輩と同棲している。一時はごたついたが、結局元の鞘に納まった。
後輩は……、あいつは、「彼女とは、魂レベルで繋がってるんだ」と言い切った。実に無邪気に。幸せそうに。
売れない造形作家。俺がずっと抱えて面倒を見てやった。
今日もその仕事の打ち合わせのために、このビルに来ている。そして、彼女は俺の臨時アシスタントだ。
「ええ、不自由はありませんよ」
彼女は、そう答えた。本音のようだ。だが、俺は知っている。ささやかな贅沢さえ、許されない生活を。
欲のない女だ。奥ゆかしく慎ましい、そのくせ垢抜けた容姿と仕草。
急上昇するエレベーターの中、俺は、身体にかかる重力加速度に軽い目眩を覚え、目を閉じた。
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