追憶のレプリカ

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 気がつけば、父親の姿はなかった。美羽が小学校に上がる前に一度だけ会った気がする。母は顔を赤くしながら玄関先に立ち、大声で言うとそのまま出ていってしまった。フレームの上半分に黒いフチのある眼鏡をしていたことだけが父親の記憶であり、それ以外の記憶はない。  暴力的な父に逃れるように親子三人、美羽が幼稚園の頃にこのアパートに引っ越してきた。  トタンの壁面はところどころ錆びていた。取っ手が欠けた引き戸を開けると段差のある玄関の隣にはトイレがある。しみだらけのふすまを開けると居間があり、入って左に台所とシャワーのないお風呂場があった。  美羽には6歳上の中学生の姉の美紅がいるのだが、母と顔を合わせばいつもケンカばかりしていた。ああいうところは父親に似たんだよと母は買い物帰りに左腕にある出来たばかりの青あざをさすりながら言った。  夕方になり、母は化粧をしだす。真っ黒なマスカラを塗り、真っ赤な口紅をひく。香水をくゆらせ、スパンコールのついた黒い洋服を着る。 「じゃあ、いってくるね。おりこうにしてるんだよ」  うん、と美羽がうなずくと出かけていってしまった。夜中にならないと母は帰ってこない。夜はいつも姉と過ごしていた。作り置きの夕飯を食べる。今日は親子丼だ。冷めてカチカチになった卵とタレがしみたれてべちょべちょになったお米を頬張る。夕飯を食べたというのに、姉はいつもポテトチップを一袋開けて食べていた。
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