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第5章:中村明子
出発を半月後に控えたある日、茂に思わない事故が起こった。高校生の時から治療していた蓄膿症の症状が悪化し、此の際手術しようと決心したのである。
蓄膿症の手術は一ヶ月の入院治療を必要とする大掛かりなものだった。建設省の幹部に相談すると、止むなしということで、出発を二ヶ月遅らせ五月出発ということで、手術は許可された。
麻里に連れられて、I医大の病院に入院した。実は麻里はこの大学を卒業して建設省の技官に採用されたので、母校の病院には特別のコネと、繋がりを持っていた。
執刀は耳鼻咽喉科の教授に決まった。勿論麻里が万事滞り無く心を配ってくれたからである。手術の予定日が決まるまでの数日、待機入院している茂を伴って、麻里は三階の病室を訪れた。
「ここに大学の後輩が入院しているの……」
麻里は気さくにそう言ってそのドアを叩いた。部屋に入ると、大きく開かれた窓から新緑の緑が目に入った。大柄な真紅のガウンを羽織った若い女がベッドに腰を掛けていた。透き通るような白い肌に、腰高の長い脚、映画カサブランカのイングリッド・バーグマンにそっくりの、見ると右足の踝の上部まで石膏のギブスで固定されて居り、彼女の入院の理由がわかった。
「中村さん、中村明子さん、彼女独身よ、年齢は……勿論私よりもずっと若いし、美人でしょう?」
麻里は屈託なさそうに口に手をあてて笑い、そのすべすべした白い肘が涼しそうに見えた。
「中村です。麻里さんと同じ大学の後輩、三年後輩です」
「脚をどうされたのですか?」
心配そうに覗き込む茂の視線に
「アキレス腱を切ってしまったの……」
憂いを含んだ長い睫を瞬かせながら、細表の顔をほころばせた。麻里よりも長身で体格も良いが麻里の持つ温かい雰囲気とは違い、ある種の緊張感が茂に伝わった。彼女も保健関係の仕事に従事しているという。紹介の会話は直ぐ終わった。
「この方、もう直ぐブラジルに雄飛なさるの、日本はこれからなのに、残念ね……」
麻里は自分の考えを後輩の明子に押し付ける様にいって
「三階と五階だから、仲良くして、淋しくなったらここに遊びに来るといいわ……」
と、無責任なことをいって初対面の二人を困惑させた。
「いいわよ、遊びにいらして、いつも退屈しているの……」
明子は遊びなれた大人の女の貫禄を示して軽く笑った。
「退屈したら本を借りに来ます」
茂は言葉少なに明子に別れを告げ、部屋を出た。
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