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麻里の傘を握る手に手を添えながら茂は麻里の頬に口付け、温かい唇にそっと触れた。暗い闇と生温かい雨が二人を用心深く包み隠してくれていた。母屋の裏に離れがあり、それが麻里の住居だった。
「主人は出張で留守をして居ますの、貴方が今夜いらっしゃる話をすると、お会いできなくて残念だと言っていましたわ、それから貴方に宜しくと」
自分の来る事を主人に知らせてあったということが茂にはショックだった。初めての訪問なのに、夜の九時過ぎに訪れて母屋の人に挨拶もしていない自分の常識外れの行いが茂を苦しめた。
「入って狭い家だけど……」
こじんまりとした文化住宅だった。
「御主人は何を為さっていらっしゃるんですか?」
「進学塾の先生よ、今日は東京で会合があって、明後日まで戻れないの」
見ると奥の部屋の襖が少し開いていて、眠っている小さな子供のおかっぱの頭が見えた。
「三才になるの……」
麻里は優しい目をして子供を眺め、
「おなか減ったでしょう? 鋤焼よ、今夜は……」
カラフルな紫と黄緑、それに水色の三色プリント地のスカートをくるくると回転させながら、麻里は手際良くテーブルに料理をセットして行く。
妖精のような軽やかな足運びと、優しい甘い声、年の差は九歳も離れているのに、精々二、三歳の差しか感じさせない。
こんな楽しい時間がこの世にあったとは、茂は考える。こんな素敵な女性を残して自分はブラジルに旅立とうとしている。自分は何か間違った決定をして居るのではないか?
そんな疑問が頭を過ったが、良く煮えた霜降りの肉の塊に、情けなく茂の腹はグーッと鳴った。
先ほどから飲んでいるビールの酔いが茂の心を大胆というか鈍感にさせている。《もう、何でも来い。据え膳食わぬは男の恥だ。……》茂は覚悟を決めて大きくグラスを傾けた。
茂は酔っていた。暗い部屋の中で麻里が敷いてくれた布団に横たわっていた。浴衣に伊達巻を締めた麻里が隣りの布団に入り枕もとの電気を消した。互いに沈黙を守っていたが、茂は麻里に声を掛けた。
「そっちへ行っていい?」
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