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ようやく邪魔者がいなくなったひとりの座敷。
文彩はそのど真ん中に座布団を一枚敷き、使いもしない腕枕を右脇に置いて、開け放った窓から見える晴れ空。傾いた陽を仰ぎ見ながら、三味線を弾いて詩を吟ずる。
「――ようやく、要らぬ音がなくなった。末成よ。主の所にも届いておるか」
末成と男の名前を口にする文彩。どうやら、あのふたりの戯言は邪推ではなかったらしい。
想い人の名は末成、世間では名の知れた講釈師で、芸名は一龍齋鶴朱と通っている。講釈の腕もさることながら、三味線においても名手であり、長唄や義太夫にも傾倒している多芸の持ち主である。
そして、この末成が決まって廓で呼び出すのは、この文彩であった。
その座敷はまことに奇妙で、末成が筆をとり、読み書きを教えるかと思えば、互いに連歌を詠み、ときには講釈や三味線の語り合いを行い、床を交えずに夜を明かすこともあったという。
文彩は、廓で客を取り始めたときは、難しい読み書きはあまりできなかった。しかし、今となっては歌本だけでは飽き足らず、客からもらった金も講談本に注ぎ込む始末。文彩の部屋には、ほとんど彼女でしか読めぬような漢字で描かれた講談本が積まれている一角があるのだ。文彩は不意に立ち上がり、その一角から一冊の本を取り出す。背表紙に達者な続け字で太閤記と書かれてある。
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