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周りに誰もいなくなり、独りきりになると一層、文彩は自分だけの世界にのめり込む。
「主には色々なことを教わったな」
相手もいない独り言をつらつらと続ける様は、まるで独り芝居。透き通るように白く、細い指の腹で、半紙を束ねた本の袖を愛でるように撫でる。そして、一枚また一枚と紙をめくって行く。行の始めを読めば、内容がまざまざと思い出される。
「感慨深いものだ。主に会うまでろくに読めずにいたものも、今では足りぬ」
―――― 読めど知りたる 紙の上より 未だ知らずの 床の上 ――――
咄嗟に胸中を歌に綴る文彩。思えば都都逸も末成から教えてもらったもののひとつだ。
多芸に秀でていた末成は詩の才もあり、百人一首と古今和歌集を常に持ち歩き、俳句、川柳、狂歌、都都逸などを集めた歌本も、よく文彩との座敷で読みあっていた。七七七五の文字に乗せて三味線とともに語られる庶民的な詩。文彩は都都逸に魅せられ、末成と詠み合ううちに、いつしか両方にどっぷりと浸かってしまったようだ。
―――― 足のみ浸かると 誓うたけども 気づかず沈む 恋湯船 ――――
そんな末成もここのところ、この廓を訪れていない。
文彩の客取りが落ち目と噂とされているのは、どうやらそれが原因らしい。彼が足しげくこの廓に通っていたときは、文彩が彼以外の男と座敷を共にすることはそうはなかったが、彼の足が遠のいてしまった以上、当然文彩にも他の客の指名が入る。本人は気づかねど、客は気づいていた。三味線のばちをとる彼女の眼が、明後日の方向を見つめていたことを。
―――― 群がる虫に 外目を向けて まぶたの裏に 主の顔 ――――
あらぬ方向へと視線を注ぐ文彩を、気味悪がったのか。客への気配りができないと思ったのか。
彼女は次第に客を取れなくなっていた。ほおずきと称される血色のいい健康的な顔立ちも、このところ少し痩せたせいか顎が尖り出し、不健康な色になりつつあった。――それも三味線を抱けば、生気を取り戻すようだが、このまま末成の足が途絶えれば、彼女はまさしく幽霊三味線になるやも知れない。
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