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「上村さん!」  不意に名前を呼ばれた。馴染みのない声に、訝しさが先に立つ。振り返ると、そこに眼鏡の男性が立っていた。男性の顔を覚えるのは苦手だが、さすがにさっきまで同じテーブルにいた人くらいはわかる。人事課の高木さんだ。 「あ、あの」  自分から声を掛けておきながら、高木さんはまごついているようだった。 「だ、大丈夫ですか」  何が。  反射的に口をつきそうになったが、問い返すほど親しい間柄でもなく、彼の次の言葉を待つ。 「急に帰られたから、体調が悪いのかなって、思って」  どうやら途中退席した私を心配して、追いかけてきてくれたようだった。 「いえ、まったく問題ありません」  むしろ気分がいいくらいだ。ありがとうございました、と一礼し、もう一度階段に向き直る。 「あ、僕も同じ方面なので」  ご一緒します、と高木さんは後をついてきた。 今度は的確に彼の気持ちがわかった。彼は、私に何らかの興味がある。  途端に、今までの浮かれた気分に苛立ちが靄のように立ち込めてきた。 (あのさ、私、彼氏と一緒に帰ってるの) (今日だって、ちゃんと迎えに来てくれたの) (だから、あなたはついてこなくっていいの)  断り台詞はいくつも思い浮かぶ。でも、それは決して口には出来ない。  あんなに確かに感じられた『謙さん』の気配が遠い。そのことがとてつもなく心細くて、涙が溢れそうになる。  そこからどうやって家に帰ったのか、あまり憶えていない。
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