現在 Ⅲ

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―…… あの時の俺は、葵の気持ちなんてもちろん知らなかった。 どちらかと言えば、苦手に思われているかもと思っていた。 自分の気持ちの暴走がないように、とにかくそれを抑えようと必死だったかもしれない。 「……秋?」 誰かが俺を呼んでいる。 身体中が痛くて怠くて辛い。 寝苦しくて、夢なのか現実なのかもわからない。 「秋?」 葵の声だと思った。 うっすら目を開けると、ぼんやりとしたシルエット。 「……葵?」 心配そうに俺を見る葵だった。 「秋、辛い?」 辛いけど辛いとは言いたくなかった。 彼女の手が俺の額にのびる。 冷たくて気持ちいい。 「だいぶあるね…」 彼女の方を見ると、大きなスーツケースが見えた。 到着したのだと理解した。 「迎えに行ってやれなくてごめん」 掠れた声で言うと、彼女は少しだけ笑って首を横に振った。 俺の額から葵の手が離れる。 「お水飲める?」 葵の声のトーンが好きだ。 ゆっくりで優しく届く声。 彼女はミネラルウォーターのペットボトルにストローをさして、俺の口元に持ってきてくれた。 飲み込むのも喉が痛いが、俺は水分を摂った。 「タオル冷やしてくるね」 「…葵」 「うん?」 俺は彼女の腕に手を伸ばし、掴んだ。 「秋?」 「…ここに居て」 俺がそう言うと、彼女は頷いた。 ベットの横に座ってくれて、俺の手を握ってくれた。 葵には、自分の素を見せられる。 クラムの秋から、佐倉秋に戻れる。 俺はそのまま目を閉じて、安心して眠れた。
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