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「俺、あなたが好きです」
私の聞き間違いではなく、今度ははっきりと染谷は言った。
「……あんたなに言ってんの。正気? 私には慶介がいるんだよ。不謹慎にも程があるよ」
「でも、もう──慶介のこと好きじゃないでしょ、和泉さん」
染谷は噛んで言い含めるように囁いた。
「な、んであんたがそんなこと言うのよ!」
内心、どきりとしていた。否定したくても、出来ない自分をいつの間か知っていた。認めたくはないから黙殺していた、のに。
「だって、慶介が好きだったら俺みたいなの平気で慶介のいない家に入れるなんて出来ないはずだから」
──ああ、そうかもしれない。
否定するより先にそんなことを思ってしまう自分がいる。
好き、とか。
私は本当はよくわからなくなってしまっていた。
確かに付き合いだしたとき、私は慶介が要れば何一ついらないと思えるほど好きだった。だから歌もやめた。いや、歌にすがって生きることが必要じゃ無くなったのだ。
慶介の、ペンだこのある指が好きだった。
機械に頼るのが苦手なのだと、むかし三百枚の新作を万年筆一本で書き上げたことがあるといっていた、ものを作り出すためにあるその指が愛しかった。その手がはじめて私の体に触れたとき、私は慶介のひとつの作品になった。
インクの染みた指先。
私は描かれる。
一人の人間として。
一人の女として。
それがすごく幸せで、気持ちよかったから、私は歌なんかいらないと思った。
この指が、腕が、体が、心が、触れる魂があれば他には何もいらないと思った。
たったひとり、私を必要としてくれる人がいるということ。
たったひとつ、揺らがない真実。
それだけが私の、欲しいものだったから。
なのに今は、わからない。
慶介の体温が、熱かったのか冷たかったのかも定かではない。
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