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染谷が来たとき、一瞬だけど慶介の気配がしたように感じた。
慶介と同じ匂い。
慶介と同じ体温。
慶介と。
けいすけ。
け、い、す、け。
「俺に抱かれながらあいつの名前を呼ぶのはやめてください」
堰が切れたように染谷が声を荒げた。いつのまにか想いが口をついていたようだった。頬に、ぬるい水がこぼれた。染谷の涙。
「なんで、あんたが泣くの」
口の端に流れ込んだ涙を舌先で舐めて、しょっぱいと同時に苦い、と顔をしかめる。
「だってあなたがあまりにも……」
唇が動いた。
(いとしそうにあいつのなまえをいうから)
子供っぽい泣き方をする人だ。
嫌いじゃないな。ぼんやりとそんなことを思う。
自分より弱いものをあやすみたいに、私は指先で染谷の頬を撫でた。じんわりと乾いた他人の皮膚が指先の腹に馴染んでくる。私の指先がほんのりと染谷の体温に染まっていく。
心地いい。
体の境目なんかなくなって、とろりとバターみたいにとろけていけばいい。
それはどんなに気持ちいいんだろう。
「なんで、あいつが帰ってくるって信じてられんですか」
鼻をすすりながら、染谷が訊いた。その言葉の意味が分からなかった。
それはなんか、なんか、こう、すごく、真実めいていて。
かみ締めればかみ締めるほど、重たく胸の奥に沈みこんでいくようで。
「慶介は帰ってくるよ」
上の空で答える。唇がわなないた。
帰ってくる。帰ってくる。帰ってくる。帰ってくる。だってここが慶介の居場所だし帰る場所だから。そうじゃなかったら、私は。
「帰ってくるよへんなこと言わないでよ」
冷たい汗が、じわりと背筋を伝っていく。つるりとした言葉。つるり。つるりと、捕まえられない、意味を成さない言葉。私の手の中でいたずらに遊んでばかりいる言葉。
か。え。っ。て。く。る。
黒い、ただ、黒い、瞳がじっと私のなかの偽りを引き出そうとしているようで。
怖いと思った。
「和泉さん……あなた、このなかにいったいなにを隠してるんですか──」
私の胸に触れる、大きな手のひら。
胸のふくらみではなく、鎖骨の下の奥、やわらかいところにぐっと踏み込んでいく強さ。
(コノナカニ、)
(イッタイナニヲ)
(カクシテ────)
「何も」
じんわり、沁みこんでいく、優しい熱。
「何も、」
ふるえ。
世界が、ぐらぐら揺らぎそうになる。
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