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なにもかも、根こそぎ。もっていかれてしまう。もっていかれる。
ごめん、待って。まだわからないの。
まだ、さよならもしていないでしょう。
さよならを。させて。おねがい。
「何も!」
ぐ、と掴まれた。手首。軋む。骨に、指が食い込む。
染谷の顔。
染谷の、眼。
慶介に似ていた。
何でそう思うんだろう。どうして、どこかで会ったような気がするんだろう。
「慶介は……、兄さんはもういないんだよ」
何を。言って。いるの。
白いペンキをぶちまけられたように、目の前が真っ白になる。
「思い出して。和泉さん。俺のこと本当にわかんない?」
「……え、」
「俺、慶介の弟の慶太。親が離婚したせいで苗字は違うけど、兄さんの葬儀で会ったでしょう。ま、あの時は俺もこんな色の頭じゃなかったからアレだけど」
言われてみれば。確かに私は、染谷と会ったことが、ある。どうして忘れていたのだろう。目許も、声も、匂いも。似てるのに。
体からふ……、と力が抜ける。
「──慶介の、葬儀……?」
そうぎ?
床に座り込んだ私を尻目に、染谷は立ち上がってつかつかとあの壁のカレンダーの前に歩いていく。
「今日は、六月の第三週日曜なんかじゃありません」
べりべりと、小気味よい音を立てて染谷はカレンダーを剥がした。それは、私が必死で隠そうとしていた真実のヴェールをも剥いでいく。
「もう、八月ですよ。あいにく今日は台風で、あの日と同じ雨ですけど。和泉さん……やっと、兄さんの四十九日が明けました」
……ああ。あれからもうそんなに時がたってしまったのか。
慶介が死んでから。
私が取り残されてから??。
私は俯いた。それを思い出しても薄情なことにこれっぽっちも涙が出なかった。
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