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『年がら年中海へ出かけていると、血液そのものをそっくり海水にすげ変えられてしまうんだ。やがてその体を満たした海水の分身は母なる海へと還りたくなり、身も心も海へ近付きすぎた者を海へと突き落としてしまうのだよ。』
ある漁師が夜な夜な語った話なのだそうだ。代々この村に言い伝えられている古い迷信、怪談の類だが、昌平ははじめてこの与太話を広めた者の気持ちが分かった気がした。己を満たす、得体の知れぬもの、抗えぬもの。それにひたひたと侵される恐怖、高揚。それに諦め。根底から負けてしまう何か。
遥か昔の漁師が海に怯えていたとして、それならば昌平は恋に怯えている事になる。
『恋は人を変えてしまう。』
これは渡来瞬のことば。昨晩のストーブの灯りに照らされた渡来のうっすら汗ばんだ顔を思い起こす。
昌平は眉をしかめながら何度か頭を掻き、少し考えた末、またペンを砂の上に下ろした。
『チドリさん。
お返事、どうも。しかし、どうしても顔を合わせる事はできません。
もう少しだけ、どうか、待っていてください。S』
波が遠くで鳴いた。渡り鳥が水面をつつく。汗ばむこめかみを拭い、これも潮か、と思った。
帰ろうか、と重い腰を上げた瞬間、松の茂る向こう側に白い服が揺れた。思わず唾液を飲む。
茅鳥青年だ。
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