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渡来はいつものようにほのかに赤い頬にえくぼを作って笑い、この集会所は便所が無くていけないと溢し、あっという間に夜気の中を走り去ってしまった。彼が走る音に合わせ踵の剥がれた長靴ががっぽがっぽと鳴り、笑いを誘った。苦笑を溢していると今度は渡来の父親が顔を覗かせ、あれよあれよと集会所の中へと引き摺りこまれる。これから予定が、という昌平の声を遮り、すっかり顔なじみである渡来の親族らに囃したてられ、立ち去るに立ち去れず、昌平は仕方がなく少しだけという約束で料理をつまむ事になってしまった。心は今にも走り出して海岸へと飛んでいきそうなのだが、体が思うように動かせない。激しいジレンマが昌平を襲う。
すでに波の音はここまで聴こえているというのに。
結局、昌平が解放されたのは九時半をゆうに過ぎた頃であった。
肝心の渡来が戻って来なかったためにずるずると引きとめられ続けたのだ。大方彼もこのドンチャン騒ぎが嫌で便所に帰るフリをして逃げたのであろう。夜はさらに冷え込み、細かい雪が音もなく降っていた。
集会所から海岸までの短い距離を茅鳥青年の顔を思い浮かべながら全速力で走り、松の林を抜け、ようやく海岸へ着いた。真っ白だったはずのズックは泥水を被って汚れており、なんだか嫌になる。荒い息を吐きながら砂を踏み、茅鳥の薄い翳を探す。
昼間はあんなにも曇っているのに、夜ばかり晴れるのはどうしてだろう。切れ切れに雲の舞う空からは雪が落ちるというのに、蒼白い月は煌々と照り、さざ波の表面を淡く光らせている。水面に浮かぶ月光の橋は細かく砕けている。
彼の名前を呼んでみようか、どこにいるのだろうか。
昌平は逸る心を抑え、岩陰を覗いた。
「――――」
その瞬間、掻き消えそうな声がかすかに聞こえ、飛び上がりそうになった。ドクドクと脈打つ両手で押さえ、呼吸さえ忘れて振り返る。
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