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私は縁側に座り、タバコを吹かしながら陽だまりに目を細めた。庭では小学校へ上がった息子が飼い犬と泥まみれになって遊んでいる。ゆるやかな春の日差しの中で、懐かしい記憶の海に漂うのも悪くはないだろう。そして私はこの反芻を期に、二度と当時の事を思い返す事を止そう。全てはとうの昔に過ぎ去ってしまった事なのだ。
私は瞳を閉じた。かくていつしか私の意識は、潮の香りに満ちた、懐かしいあの海辺へと飛んだのだった。
美浪昌平は純朴な青年だった。
毎朝、朝日も昇らぬ内から寡黙な父親と共に漁へ出かけ、節くれ立った指で網を引いた。平べたく厚い爪が揃う、ごつごつとした男らしい手はすぐにかじかみ、赤味を帯び始める。昌平はその感覚が好きだった。特に痺れたように冷え切ったその手を囲炉裏の前に晒した時の、あの急激な血の巡りに妙な楽しさを覚える、どこか青臭さの抜けきらぬ若人であった。
今年の春に十九になったばかりの若い体は凍るように冷たい冬の波飛沫に鍛え上げられ、生来の体格の良さも相まって村一番の腕利きへと成長していった。昌平は恋の一つも知らず、ただ家族のため働いていた。
そんな彼が生まれてはじめて恋というものを知ったのは、朝一番の漁を終え、帰路へ着こうかという正午の事だった。
白砂の上に腰を下ろし、人ひとり見当たらぬ真冬の浜辺で海を見詰め、見慣れぬ青年はつまらなそうにあくびをしていた。北陸部の冬は身も凍るような寒さなのだが、彼は寒さなどまるで感じていないかのように薄手のシャツを羽織っていた。
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