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男の手を借りて再度ベッドへ横になった女は、昏睡状態から目覚めた直後と言うのもあって疲れていたのだろう。直ぐに安らかな寝息が聞こえた。表情もとても穏やかであり、素人目に不調や悪夢に魘されている様子は確認出来ない。
女の周囲に仰々しく置かれた様々な装置も平時の動きを示している為、男としても安堵して良いだろう。
嘘を吐く事が幼少期からの特技であった男は、しかし女の願い通り彼女の手をやさしく握り、彼女の様子をベッドサイドの傍らで見つめていた。
果たして、幸せとは何か。或いは、不幸せとは何か。
其れは他人の天秤で測れる物ではない。人それぞれ価値観が云々なんて言葉があるが、正に其の通りであり、他人の幸福も他人の不幸も、本人以外が計り知れる物ではない。
其れでは今、穏やかな表情、落ち着いた寝息で眠る女は、果たして幸福であるのか、不幸であるのか。
そうした詮も無い事を考えつつ、同時に男は初めて己の特技を感謝した。
幼い時分、嘘を吐いても気が付かれなかった事で、しめた!と思った事は数度ある。しかし嘘を吐くのが己の特技であると薄々察した頃には、其れさえなくなっていた。詐欺師を目指すでもあるまいし、嘘を吐く事が得意になって如何すれば良いと言うのだ、と。
時にはそうして頭さえ抱えた己が特技の存在であったが、今此の瞬間ばかりは其の特技に初めての、そして心底からの感謝を抱いている。
女に吐いた嘘が一切微塵の疑心も抱かれる事がなかったのだから。そして彼女は今、穏やかに眠っているのだから。
女は記憶喪失である。女は昏睡状態だった。其れも長い間、懇々と女は眠り続けていた。
そんな女に宛がわれた個室。其の個室に居るのは漸く女が長い間の眠りから目覚めたにも関わらず、嘘吐きの男と当人である記憶喪失の女の2人きり。
他には誰も、居なかった。
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